大正・昭和初期の捜真女学校と反町駅前
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大正時代、捜真女学校の塔と校舎
「捜真」とは、“真理を捜す”という聖書の言葉から。これを教育理念とした捜真女学校の歴史は古く、創立は明治19年。明治43年に現在の中区山手34番地から現在の中丸の地に移転しました。その当時、丘の頂に建つ乙女の城にキツネや野ウサギが出没したとか。
提供:捜真女学校(中丸)
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・捜真女学校・宣教師館前を掃除する生徒たち
提供:捜真女学校(中丸)
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大正10年、四代が勢揃いした高野家
提供:高野 昭さん( 三ツ沢東町)
後列真ん中の人がご主人の高野八蔵さん(明治27年生まれ)。後列左端の男性と右端の女性は使用人。ご主人の前、前列中央は祖母、右隣に母サクさん、左隣に長男を抱く妻。
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大正11年、セリ摘み
現在の反町駅前、第二京浜国道(横浜新道)センターライン付近。撮影者・高野捨吉さんの妻・スミさん
提供:高野捨吉さん(逗子市)
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昭和初期の反町駅前
反町駅前に横浜新道ができたため町並みは一変しました。
提供:戸塚啓子さん(青葉区桜台)
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写真左と同じ反町駅前、現在
反町駅前を広い横浜バイパスができたため今は片側商店街です。
2013.6.18 撮影:岩田忠利
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捜真女学校OGなら、忘れられない急坂
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昭和10年の栗田谷の坂
周囲は畑と薮。急な坂道を女学生や男子学生が登って行く。峠を左折した林の向こうに捜真女学校の校舎が霞んで見えます。峠の先の六角橋に横浜専門学校(現神奈川大学)があります。坂下方向が反町駅方面。
提供:神奈川大学
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昭和46年10月撮影、写真上の栗田谷の坂
捜真女学校卒業生なら忘れられない坂。往年の歌手・渡辺はま子、ナベプロの渡辺美佐、作詞家・阿木燿子、テレビキャスター・三雲孝江、そして演奏家・吉原すみれ、みな反町駅からこの坂を汗を拭き拭き登って通学しました。
坂の途中左手の白い鉄筋の建物などは横浜シネマ現像所(現ヨコシネ
ディーアイエー)。
撮影:矢作保次さん(旭区白根町)
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昭和12年、広台太田町の加藤清四郎さんの出征
出征兵士の前の男の子が写真提供者の加藤史典さん。
後方のガードは東横線。ガードをくぐって右折した先に、“新太田駅”という駅がありました。
提供:加藤史典さん(栗田谷)
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昭和12年7月、北白川宮道久殿下が青木小プールに
当時珍しかったプールが青木小学校に完成。これを視察に来られた北白川宮道久殿下(右端の囲みの中、幼少のお姿)
提供: 青木小学校
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昭和13年、横浜シネマ現像所
提供:石野英夫さん(中原区井田中ノ町)
この会社は、地元神奈川で生まれた佐伯永輔氏が大正12年1月、横浜シネマ商会を設立し、教育映画・文化映画の製作と映画フィルムの現状処理事業を始めたのが起こり。終戦までに300編以上の映画を製作し、数々の賞を受賞しています。
戦後はニュース映画の製作で再スタート、テレビ無き時代に映画館で私たちに世界や日本のニュースを提供してくれました。
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昭和14年4月、桜咲く“二中前通り”
提供:原 正さん(泉町)
左側が三ツ沢南町にある当時の県立第二横浜中学校(現県立翠嵐高校)キャンパス。この年が開校25周年の年でした。
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昭和16年、面積約2町歩(19,800u)の三ツ沢池(通称大池)
神奈川農協発行「遥かなる農の歳月」から
神奈川区と保土ヶ谷区の区境である保土ヶ谷区峰沢町にあり、この池は滝の川源流の水を貯水し三ツ沢、松本、反町方面一帯の田畑を潤す灌漑用溜め池として利用されました。戦前、池の端に桜の木が植えられ桜の季節に貸しボートが浮かんだことも。
その池は、昭和42年から第三京浜道路の工事残土で埋められ消滅。今その名残はバス停「三ツ沢池」や「大池道路」、集合住宅名「大池ハイツ」に留めるのみです。 なお、昔の灌漑用水路は暗渠となり、その道路は「滝の川あじさいロード」に生まれ変わり市民散策コースになっています。
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