編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.908 2016.03.09 掲載 
戦争
百日草の詩(11)
大磯のころ、高田保と島崎藤村その2

         投稿:栗原茂夫(港北区高田西 。著作「ドキュメント 少年の戦争体験」) 

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   拙稿「高田保と島崎藤村」への疑問

 「暮らし ワイドな窓」の前編に掲載された拙稿「高田保と島崎藤村」を読んでいただいた方から誠にもっともな質問を頂戴した。


<高田保は藤村の生存中に藤村邸に転居したのか>という疑問である。

 疑問に答えるべく文章を精査してみた。問題の箇所はすぐ見つかった。摘記してみる

◯年譜等によって、藤村が昭和16年2月東京から大磯町東小磯に転居、「東方の門」を続稿中、脳出血が再発して昭和18822日逝去したことを確認することができる。

  高田保は昭和182月から旧島崎藤村邸に転居
   

の引用は拙稿「高田保と島崎藤村」より

このままではたしかに<高田保は生存中に藤村邸に転居した>ことになってしまう。大変だ。このままに放置すれば珠玉の一編「非当世風」は光を失ってしまうにちがいない……と思った。


藤村に先立たれた藤村静子夫人がしばらく大磯町東小磯で暮らした後、埼玉の実家に移ることになり、そのあとに高田保が越してきたというのが正しいのである。








晩年の島崎藤村と静子夫人





疑問の解明を目指す

致命的な誤りは何に拠って起こったのであろうか。すくなくとも島崎藤村と高田保の年譜・略歴の再評価は必須の作業であろう……と思った。

 藤村に関しては現代日本文学館11(文芸春秋)「島崎藤村U」巻末の「島崎藤村 年譜」を参考にした。
 10ページにわたる詳細な記述は稲垣達郎氏による労作で学問的に評価が高く権威あるものと判断したからである。

 昭和18822日は動かないものと確信したのだった。

 高田保の場合はどうか。

 榊原勝著「高田保伝」は既に処分して書棚にない。近くの区立図書館にもないことが分かった。パソコンで調べるしかないか……。



 とりあえず「ブラリひょうたん 高田保」を入力。あれこれ検索した結果<高田保の紹介・超近代の思想>の項に略歴の記載を見出した。簡略ではあったけれども次のように表記されていた。

 昭和182月から大磯の旧島崎藤村宅に在住。
 
 おそらく拙稿に着手する前の取材の段階で出合ったのがこの情報だったと思われる。わたしは藤村の年譜との関連を考慮にいれずそのまま鵜呑みにしてしまったのである。


通称「町屋園」旧島崎藤村邸

大磯ホームページから転載


疑問の氷解

 疑問解決に向けて情報の探索は続いた。

「大磯・高田保公園」を入力、あれこれ検索を試みた。

 <高田保公園/大磯ホームページ>で簡単ながら彼の略歴を発見した。大磯との関連でまとめられているので、詳細な……ともいえる記述だった。

 高田保は明治28328日茨城県土浦町生まれ、大磯には太平洋戦争が激戦を極めていた昭和18年2月から住み始めました。


(中略)昭和24年からは島崎藤村亡き後の町屋園(藤村邸)に住み、大磯の社会教育に力を尽くし教育委員長を務めました。昭和27220日午前1115分行年57歳の若さで亡くなりました。葬儀は地福寺で行われました。

疑問は解けた。<高田保の紹介・超近代の思想>の項の略歴の記載は誤りであった。高田保単独では見逃しやすい事項も他の人物との関連で物言いをすると今回のような見逃しがたい事例となる。



    反省したこと

取材目的で情報を収集・処理する場合は複眼的な検討・考察を加えることがだいじであることを痛感した次第である。




 彼が教育委員長を務めたことを初めて知って、葬儀の場で町長が弔辞を述べたこと、中学校の先生方の何人かが高田家に出入りしていたことなど納得させられた。

 当時の教育委員は住民の選挙で選ばれ、教育行政も民主的だった。これらのことにも触れたかったが稿を改めることにしたい。


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