編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.909 2016.03.12 掲載 
戦争
百日草の詩(11)
 風物詩 果物(2) バナナ

         投稿:栗原茂夫(港北区高田西 。著作「ドキュメント 少年の戦争体験」) 

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  庭木のバナナ


サイパン島に生まれ育ったわたしの生家は、戦禍によってB29の滑走路の下に消えた。熱帯らしい島の家屋や数々の庭木は戦禍に遭うまでの家族たちがそれぞれに生きた証(あかし)を刻んでいたにちがいないのだが……。

 敷地の裏手には、高さ数メートルの南洋バナナ(フィリピン産と同種のものと思う)と、丈の低い台湾バナナが群生していた。多くの庭木の一つであって、バナナを食用として栽培していたわけではなかった。

 わたしにはわが家のバナナの実を食用としては口にした記憶がない。





 ※バナナは植物学上バショウ科の多年草。木ではなく草本である。











中央にぶら下がっているのは、バナナの花
撮影:筆者


 作家・中島敦とバナナ



 公学校の国語教科書を編集する目的で南洋の島々をめぐった中島敦は、長男桓(たけし)に宛てた絵葉書でバナナについて何度も触れている。
 
 南洋には秋もなく春もなくて年中バナナとパパイヤばかり。(930日)
 ぼくはサイパンに来てから毎日バナナを20本ぐらいずつ食べています。(128日)


  この間は、青いバナナを食べました。青くても、よく熟しているめずらしいバナナです。南洋にもめずらしい種類のバナナです。(104日)

生家の庭でわたしが目にしたバナナの実も、常に青かった。





  兵たちのバナナ



 <青いバナナ>といえば、思い出すことがある。3か月余の間共に暮らした兵たちのことである。

  アスリート飛行場が敵の軍用機によって爆撃を受けるというハプニングがあった。米軍の本格的な進攻に先立つ昭和19年2月23日のことである。

飛行場の防備は喫緊の課題となった。慌てた軍部は直ちに兵の増強を図った。高射砲陣地の構築を任務とした第25対空砲連隊が島の南部第1農場(南村ダンダン)に派遣されたのはその一環だった。周辺の民家に分宿することになり、わが家にも橋本兵曹長ら12名の海軍兵士がやってきた。

  兵たちが門前に現れ、サンスベリアの道をやって来た。縁側に近づくや、みな一様にバナナの群生に目を遣った。数メートルの偽茎のいただきには、たわわに実るバナナの果実が見えていた。

 山本兵長が果実の最も充実した一株を選んで名札を掲げた。2・3の兵たちが続いた。

今になって思えば、そんな些細な行為の中にも軍律厳しい軍隊につきものの階級という秩序が働いていたのだろう。子どもの理解を越えた話ではあるけれども…。

 12名の兵たちがわが家に寄宿して以来6月11日の本格的な敵機来襲の日までの約3か月の間に、山本兵曹らが選んだバナナが黄色く色づくことはなかった。熱帯のバナナは常に青いのである。


 ある夕方、栗原一家が潜んでいた洞窟に全身が真っ白なミイラ男の兵が姿を見せた。全身がチンク油でテラテラと鈍く光っていた。

 「高射砲陣地は艦砲射撃と重爆撃で壊滅状態でありマス。お世話になった12名のなかには戦死した者もだいぶおりマス」
 森2等兵だった。

 いつまでたっても黄色く色づかないバナナ。青いままのバナナ。寒冷の北支(中国の北部)から太陽の恵み豊かな南の島にやってきた12名の兵たちは、みなバナナを一度も口にすることなく島の土となってしまったのだった。


 バナナの皮の色は品種によって異なるが、一般的な黄色のバナナは収穫後10日ほど室に入れて寝かせると緑色から黄色になり、甘味を増す

 同じ屋根の下で兵たちと起居を共にするまでにバナナを果物として食した記憶がわたしにはなかった。バナナが魅力的な存在であるらしいと意識しつつ特別な想いで頭上はるかな青いバナナに視線を向けるようになったのは兵たちの想いに感染したからかも知れなかった。

 果実は父ちゃんにさえ届かないほど高いところにぶら下がっていた。


 子どもたちのバナナ


 兵たちの期待を集めたバナナ、偽茎が長く頭上をはるか高みに果実を見せていたバナナは母屋に接するように群生していた。母から台湾バナナだと教えられた群生はもっと裏手のタピオカ畑の近くにあった。

台湾バナナの周囲を舞台にわたしはいつも次弟(利夫)と楽しく遊んだ。

突然スコールに見舞われたりすると広く大きな葉をかぶって雨をさけつつ遊びを続けた。
  葉を打つ雨の音に気持ちが高揚した。

 最後に伸びた葉は固く巻かれて棒状を呈していた。
 切り取って手にすると、柔らかい竹刀(しない)になった。チャンバラが始まる。二人とも後藤又兵衛になりたがった。どこかで観た映画のヒーローが又兵衛だったのである。彼は大阪冬の陣、夏の陣で勇戦したつわもので、映画ではひとり目立っていた。
 戦時下では徳川方が敵役で豊臣方が正義とみなされていたのだ。結局、後藤又兵衛と後藤又兵衛が相対する成り行きとなった。



 柔らかい竹刀での戦いは安全で、しかも気持ちのよい汗をかくことができた。

 台湾バナナを食したことはあった。しかし食用としてではなく遊びの一環であった。なによりも果実が手の届くところにあったことがそれを可能にしたのだった。

中島敦が息子・桓宛てに「青くてもよく熟しているめずらしいバナナです。南洋にもめずらしい種類のバナナです」と伝えているが、おそらく台湾バナナであったろうと推測する。

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