編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.876 2016.02.03 掲載 
戦争
百日草の詩(11)
風物詩1 果物 椰子その2

        
 
投稿:栗原茂夫(港北区高田西 。著作「ドキュメント 少年の戦争体験」) 


この876編は、822編の「椰子その1」に続く


           作家・中島敦の誤解を解きたい


 中島敦がサイパン島から長男桓に送った絵葉書は次のように伝えている。

 <サイパンのやしの木は23年前に虫がついてすっかり枯れてしまったので今は一本もありません。やしのみずがのめなくてこまります。>

 絵葉書は昭和16年(19411128日投函となっている。ジャングル内の椰子並木で父と味わった椰子の実ジュースのわたし自身の体験とほぼ同時期のことである。敦の思い違いだろうと推察するほかない。

 どんな事情から敦の誤解が生じたのだろうか。
 手許の書物でナゾ解きの旅を試みてみた。


  <主な参考図書>

「サイパン・グアム 光と影の博物誌」   中島 洋著 現代書館
「日本領サイパン島の一万日」野村 進著
 岩波書店
「赤虫島日誌」石川達三著 東京八雲書店
 昭和
18515日発行

 C−1「航海日誌」中央公論・10月号に発表
 C−2「群島日誌」日本評論・11月号に発表
 C−3「赤虫島日誌」改造・12月号に発表
     <他に
5編収録> 
     
   ※雑誌は3誌とも昭和16年発行





         サイパン島の椰子を概観(時系列で)



 まず「サイパン島の椰子」について時系列で概観してみた。前掲書を簡略に摘記・引用し列挙すると以下の通りである。

 
 <スペイン領時代>



1740年ごろテニアン島に寄港したイギリス船に随行した画家と1819年にマリアナ諸島を訪れたスペイン人の画家が描いた絵には椰子が描かれている。

  <ドイツ領時代>



1899年ドイツ領となる。マリアナ地区行政官フリッツが椰子(ココヤシ)の栽培に着手し国家のため利益を得ようとした。
巨大台風に襲われ、何万本の椰子がなぎ倒された。回復に6年を要した。


1915年、山口百次郎がサイパン島に漂着するが、彼が目にしたのは海岸沿いに横倒しになった多くの椰子の木の無残な姿だった。すさまじい台風に席巻されたのだった。

  <日本による委任統治の時代>

1920年代は開拓の黎明期。開拓の重点は椰子農園に置かれた。
2度の台風と大旱魃および虫害で椰子農園は壊滅状態となる。


巨大台風と虫害に脅かされつつも、1937年(昭和12)のサイパン島における椰子林の面積は2,7867ヘクタールもあり、477万個の実を収穫していたという。


椰子(コプラ)に代わる産物としてサトウキビの栽培と製糖業へ移行が図られた。


                 

       まず石川達三の「航海日誌」にあたる
           


 石川達三は19415月未開の土地に対する単純な好奇心から南方へ旅立つ。サイパン、テニアン、ヤップ、パラオ等の島々を廻って7月に帰国。その時の体験を「航海日誌」「群島日誌」「赤虫島日誌」として雑誌に発表した。

 わたしは、まず「航海日誌」から読み始めた。早速興味深い記述に出合った。石川達三が船上から見たサイパンの印象である。

 <わたしは珊瑚礁の島ばかりを想像していた。それに椰子の生えた風景であった。ところがサイパンの遠望は淡路島という風な形、日本のどこにでもある島の形であった。>

彼は531日午前9時ごろはじめてサイパンの土を踏む。船中で懇意になった荒木君が同行。案内されたガラパン町の料亭で昼食を共にする。そのときの会話は謎解きの鍵となった。


「この島には椰子が無いです。」と彼(荒木)が言った。そう言われてみれば椰子は一本もなかった。

「それが面白いんですよ。カナカ(カロリニアン)というのは怠け者で椰子があれば働かずに食って行けるんですな。だから先生方を働かす為に椰子をみんな伐ったというんです。しかし本当は虫がついて始末に困ったから伐ったらしいですね」>(※ C−1)

 ガラパン町の街路樹はモモタマナである。住宅街にも椰子の木はない。61日午後1時にはテニアンに向かった石川達三のことである。「この島には椰子が無い」という荒木の言が彼の確信となったのも無理はない。あまりにも滞在時間が短過ぎたのである。





                            敦の誤解の真相は?


再び「サイパンのやしの木は……今は一本もありまでせん」という中島敦の判断を吟味してみたい。

 中島敦は仕事目的でサイパンに滞在した経歴をもつ。ただし行動半径はガラパン・チャランカノア・アスリートに限られていた。椰子をはじめ熱帯林を耕作地や住宅地に……と開拓者たちが流したエリア、島の中部から南部にかけた平地ばかりなのである。
 仮に敦が、山地の多い中部以北のジャングル地帯まで足を延ばしていたら彼は豊かな椰子林を目にし椰子の実ジュースでのどを潤す体験も可能だったろうと思う。
敦が石川達三の「航海日誌」を読んだ可能性も否定できない。

敦は妻たかに宛てて次のように書いた。
 <南貿(南洋貿易株式会社)という小さな百貨店へ行って文芸春秋(12月号)を買い、それから、そのほかの中央公論や改造や、色んな雑誌をガツガツ立ち読みしてきた。サイパンはさすがに雑誌が早く読めていいな。>


 石川達三の「航海日誌」が中央公論に掲載されたのは10月号である。

南洋で仕事をする身の敦が中央公論に手をのばし「航海日誌」をガツガツ立ち読みしたことは容易に想像することができる。とすれば、<この島には椰子がないです。」と彼は言った。そう言われてみれば椰子は一本もなかった。>の箇所で敦の判断は一層強化されたはずだ。パラオ島のコロール町から「町の椰子の並木だけはみごとだよ。」と妻に書き送っているだけになおさら……。

 サイパンに椰子の木はないという内容の長男桓宛ての絵葉書の日付は1118日である。
 「航海日誌」は10月号の雑誌に掲載されているのだから、時間的な矛盾も生じないのである。








        太平洋戦争とサイパンの椰子の木
 

引揚者として浦賀に上陸したわたしたち母子3人がサイパンを訪れたのは、昭和51年の夏のことだった。父と二人の弟が島の土となって33年目を迎え、慰霊の旅だったのである。

 生まれ育った地はやはり懐かしかった。が、植生のあまりの変貌ぶりに違和感を禁じえなかったのも事実だった。
 わずかに残った椰子の木々は弾痕を残し、あるいは爆撃と艦砲射撃に翻弄され、みすぼらしい姿をさらしていた。米軍の火炎放射器で焼き尽くされて消滅した椰子も少なくなかったはずだ。



弾痕を残したヤシの木


 タガンタガンという見かけぬ植物がやたらに目についた。(品にかけるな……)と思った。
 焼き尽くされた熱帯樹林に代わって米軍が空から種をまいたという。成長が早く瞬く間に島全体を覆い尽くしてしまったのだそうだ。

 「椰子の葉繁る常夏の島」はもう帰ってこないのだろうか。椰子の実ジュースで乾いたのどを潤した椰子の群生は、島で生まれ育ったわたしの原風景である。その原風景に出合って胸を突かれたのは、むしろバリ島の奥地だった。戦禍に遭わなかった島だったのだ。

 サイパンの椰子は巨大台風に翻弄されたり虫害に侵されたりしてきた。が、戦禍に見舞われたことが最大の災難だったはずだ。
 やはり戦争は繰り返してはならない。















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