編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.907 2016.03.07 掲載 
戦争
百日草の詩(11)
大磯のころ、高田保と島崎藤村

         投稿:栗原茂夫(港北区高田西 。著作「ドキュメント 少年の戦争体験」) 

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  高田保の通夜に


昭和27年2月、大磯町東小磯88の高田邸には残雪があった。立春が過ぎても寒気は厳しかった。

わたしは、ひょんなことから、随筆「ブラリひょうたん」で知られる名随筆家・高田保の通夜の列にいた。大磯中学校の生徒会長として……。



随筆家・高田保邸

弔辞のなかで、町長は「町民はみな泣いています。」と心からの弔辞を述べた。

みな泣いたという町長の弔辞は、町民の心情を伝えて誇張も偽りもなかったのだろう。けれども、わたしは何の感慨もなく遺影に頭を垂れ型通りの焼香をした。偉い人の葬儀に参列しているのだという責任感から、精一杯その場にふさわしく振舞っただけだった。身も心も固かった。終わってホッとした。場違いなところに来てしまったとの思いだけが残った。

いつか通夜のことは記憶から消えた。









高田保の著書に出合う


没後30余年という永い歳月が流れた。

ある日偶然「ブラリひょうたん」(要書房版3巻本)に出合った。東京日日新聞(毎日新聞の前身)に連載されたのだが、昭和20年代のわが家は新聞など購読する経済的余裕はなかったし時間的にも厳しかった。ただ大磯中学校の生徒の一人として高田保が著名な随筆家であり大磯の町民であることは知っていた。通夜の記憶がよみがえったわたしは、迷わず購入したのだった。

一気に通読した。人間味溢れるユーモアとエスプリ。そして鋭い風刺の数々。読み進むうちに、人間高田保に直に対面しているような錯覚を覚えた。

 同じころ榊原 勝著「高田保伝」を購読し、高田保の人間像はさらに鮮明になった。生前の高田家には、魚屋から学生まであらゆる老若男女が出入りしていたという。著書を人に贈るときは、「隣人 高田保」と署名していたと知り、気さくで庶民的なお人柄が偲ばれた。わたしも彼の隣人としておかしくないだけの知識を得たと思った。通夜に参列できたのは幸運だったと思うようになった。















鬼籍の人に対して敬慕の情が募った。

大磯を離れ各地を転々としたあと、わたしは横浜市港北区に居を定めた。その後も大磯にはよく足を運んだ。



高田保の家族

パンにバターを塗る保が、愛妻、愛犬と



遺影「高田 保」


 高田保の墓前にツワと黄を


 ある年の初冬、早々と大雪が降った。早くからその日と決めていたわたしは、大磯の高田保公園を訪れた。積雪はまだかなり深かった。公園を囲む坂田山の樹木群はみな白く輝き、あたりはしんと静まり返っていた。


坂田山に高田保の徳を偲び造られた「高田保公園」と説明板

「高田保ここに眠る」と刻まれた谷口吉郎設計の墓石は雪できれいに洗われていた。
  屏風状の文学碑は、仏の眠りを北風から護るように墓石を抱え込んでいた。

<海のいろは日ざしで変わる>
 ……碑には故人の筆跡がそのままに刻まれていた。

彼は、ここからの眺望をこよなく愛したという。なるほど遠く目をやると、相模湾全体が雲一つない空の色を映してキラキラと細かく動いていた。


再び墓石に目を移すと墓前に供えた花が萎れたままだった。仏花を用意しなかったことを悔いた。せめてアオキの赤い実でもあれば……と雪深い山中に分け入った。

やっと野菜畑の一角に遅咲きのツワの花をみつけた。墓前に供えると、鮮やかな黄が目に染みた。




ツワブキの花

日吉で撮影:岩田忠利

故人への敬慕の念がまた深まったと思った。







藤村が愛した白い花


「ブラリひょうたん」に、藤村に触れた2編がある。「藤村忌」と「非当世風」だ。
 「藤村忌」は、七回忌の翌日掲載されたものである。
 

 <藤村先生は白い花が好きだった>という一節が目をひく。庭の桔梗も紫ではなく白だったそうである。
藤村が白い花を好み、とりわけ白樺を愛したということを、わたしはすでに知っていた。剣持先生から伺っていたからである。

剣持先生は新制中学校1年生のときのホームルーム担任で、新進気鋭、兄貴分のようなお方だった。担当の社会科以外のあれこれを熱っぽく語ってくれたものだった。

藤村の「破戒」を一読するよう強く勧めたのも剣持先生だった。(「破戒」が問題視されるずっと前の話)が、わたしは「若菜集」の方を愛読した。「草枕」などは暗唱するくらい繰り返し朗読した。

     ひとりさみしき吾が耳は

  吹く北風を琴と聴き

  悲しみ深き吾が目には

  色彩(いろ)なき石も花と見き

このあたりにくると、なぜか心がゆさぶられるのだった。


転居を繰り返した栗原一家である。一時期を麻布市兵衛町に暮らしたことがあった。飯倉に近かったことから「飯倉だより」は読んだ記憶がある。が、彼の名作と評価の高い長編小説をひもとくことは遂になかった。

ただ多感なころに剣持先生からお聞きした「藤村が白梅を愛した」ということはずっと忘れずにいた。



白梅「玉牡丹(ギョクボタン)」

撮影:北澤美代子さん(綱島)
  白梅の季節に藤村を想うことしばしばだった。

それにしても、剣持先生はどうして<藤村が白梅を愛した>ことを知ったのだろうか。
 すでに「藤村忌」を読まれていたのだろうか。いや、筆者から直に聞いた可能性も否定できない。「ブラリひょうたん」によると地元の中学校の先生方の何人かは、高田家に出入りしていたというので……。









藤村と藤村夫人の墓前にて


高田保公園から地福寺に向かった。大磯駅前を過ぎ、サザンカ通りを海の方へ坂を下りきったところが地福寺である。

寂びた感じの境内に藤村の墓はあった。雪で洗われた墓石はすべて白い御影石だ。敷きつめられた白い玉砂利にも薄く雪が積もっていた。冬の柔らかい木漏れ日を受けたあたりは、いっそう白の輝きが鮮やかだった。



地福寺





藤村の墓

境内いっぱいに張った梅の枝々は、水晶のような雫に光を宿してみずみずしかった。梅の開花にはまだ早すぎたが、よく見ると花芽がすでに用意されているのだった。藤村の墓に接してやや小ぶりの墓が並んでいた。「島崎静子の墓」と知りちょっとびっくりした。以前にはなかったと記憶していたので……。

「非当世風」のエピソードを思い出した。

大磯町東小磯に住んでいたさる未亡人(寡婦のことを当時はこう称した)が、埼玉の実家の方に引っ込むことになり、そのあとに高田保が引っ越してくる。氏が、さて荷物を納めようと押入れを開けると、何やら紙包みが置いてある。


「未亡人の方で忘れていったものとばかりおもって、わきへ片づけようとすると私の家内あての名刺がはってあるのに気がついた。家内にあけさせてみると、上等な障子紙が一本と、それに未亡人手作りの雑巾が何枚か入っていた。本来ならば障子の破れもつくろい、きれいに掃除した上でお引渡しするのですが、こちらも引っ越しのごたごたゆえに、という行き届いたあいさつが聞こえるようだ。ああと家内も深い息をして、りっぱなことを教えられましたといった。」(「非当世風」の一部)

「藤村忌」が書かれたのは、高田保が藤村の旧宅に住むようになった秋のことである。さる未亡人というのは、実は藤村夫人だったのである。

  年譜等によって、藤村が昭和16225日東京から大磯町東小磯88に転居、「東方の門」を続稿中脳出血が再発して昭和18年8月22日逝去したことを確認することができる。静子夫人によると「涼しい風だね」と二度繰り返したのが最後の言葉だったそうである。

  高田保は昭和182月から旧島崎藤村邸に転居、昭和27220日胸部疾患のため死去。わずか8年と3か月に過ぎない大磯町民だった。が、その間地元の多くの人々と濃密な交わりを重ねた。

 多くの町民の故人に寄せる想いは「高田保公園」として後世に残されたのだった。








  藤村と高田保とわたし


 退去すべく雪の参道をたどっていて、図らずも発見したことがあった。

藤村の墓の左手の老梅の根元にツワが遅咲きの花を咲かせていたのだった。高田保公園の墓前に供えた白銀のなかの黄の色をここでも見ることができたのだ。改めてあたりに目を凝らすと、梅の樹の根方のそこここに、まるで寄り添うようにツワがあった。晩年藤村の旧宅に移り住んだ高田保……。藤村の詩に親しみ、高田保の通夜の列にいたわたし。縁というものの不思議を思った。

  それから間もなくして、<昭和53219日、白梅とツワのこの地福寺で、町民による高田保の29回忌の法要が営まれた。>という小さなニュースに接した。


東京日日新聞(毎日新聞)連載の「ブラリひょうたん」で健筆をふるった高田保だったが、「昭和史全記録 19261989」(毎日新聞社刊)で東京演劇集団の創設に尽力した千田是也ら5名のうちのひとりとして、演劇人として高田保が名をとどめている。

物足りない記述だ。昔日の想いが強い昨今である。








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