渋沢栄一氏は大正5年に引退するまでわが国実業界の指導的役割を果たし、第一国立銀行設立を手始めに基幹産業となる500余の会社を設立、軌道にのせた。引退後は教育・社会・文化の各方面の社会公共事業に力をそそぐ。
その欧米視察の帰国談話が「今後の都市生活者は事業所と住居を別にし、郊外の空気のよいところに住宅を持つべきだ」であった。これがいわゆる渋沢構想で、それを具体化するため大正7年資本金50万円のわが国最初の都市開発会社「田園都市株式会社」が設立される。
「タゾノトイチ(田園都市)さん」
4男の渋沢秀雄さんは、当時20代でその会社の重役に就任、父親の代りに単身船に乗り欧米の宅地開発事業を視察、今日の田園調布の基礎づくりに取りかかる。
同氏の著書『わが町』に当時の模様がこんなふうに書かれている。
「もしもし、こちらは田園都市会社ですが、パンフレットの印刷をお頼みしたいのです」
「はぁ? なに? デンケン?」
もっとヒドイのになると「え、なに? 伝染基地?」とくる。
社員が郵便局へ電報を打ちに行き、料金を計算する間ベンチで待っていると、「タゾノさん」と呼ぶ声が聞こえた。気にも止めずにいたら局長が「タゾノさん、タゾノトイチさん!」と大きな声で繰り返したのでやっと気がつき、「なるほど田園都市(タゾノトイチ)さんに違いない」と苦笑い―――。
まさか、この会社が今日の東急電鉄の前身となり東急王国″とまで呼ばれるほど成長するとは、だれも予想しなかったであろう。
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「あれが電気の光だ!」
分譲が始まり、やがて家が建ち、ポツリ、ポツリと電灯が灯るようになる。丘の中腹に点在するその明かりは多摩川をはさんだ対岸、川崎市中原区小杉あたりからは漆黒の森の中にひときわ輝いて見えた。
どの家もまだ石油ランプ時代のこと、小杉御殿町に住む原平八さん(82)は友だちと多摩川岸へ行っては雨天でも煌々(こうこう)と光る様を見て「あれが電気の光だ!」と珍しそうに眺めたという。
ドロボウも見向きもしない田園調布
当時、田園調布に人家が増えたとはいえ、夜道は暗く人里離れたように寂しく、一種の不安を感じさせた。
そこで、渋沢秀雄さんは治安を心配してお巡りさんのいる交番を田園調布に置けるよう警視庁へ交渉に行く。と、担当の警察官が笑いながら、
「泥棒から見れば、電車賃を払って出かけても家数が少ないから、狙った家に入りそこなえば、すぐ他の家という訳にはゆかない。そんな歩留まりの悪い所へは行きませんよ。泥棒が入り、火事があるようになれば、町もー人前です」
当時はまだドロボウも見向きもしない田園調布だったのである。
文:岩田忠利 イラスト:俵 賢一
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