編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.822 2015.12.28 掲載 
戦争
百日草の詩(11)
風物詩1 果物 椰子その1

        
 
投稿:栗原茂夫(港北区高田西 。著作「ドキュメント 少年の戦争体験」) 

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           作家・中島 敦の椰子


 中島敦(前819編登場の作家)は公学校用の国語教科書を編集する目的で南洋の多くの島々を訪れている。

 任地のパラオ島の土を踏んだのが昭和16年7月6日。筆まめな彼は、早速内地の妻宛てに次のように書いて封書で送った。

7月6日 (抄録)お昼少し前、パラオに着いた。……今、町まで一寸出かけて来たところ。道の両側に、椰子だのパパイヤだの、パンの実だのバナナだのが、一杯になっている。

 7月9日 (抄録)街の椰子並木だけは見事だよ。高い所に一杯実がなっている。島民の子にでも、いいつけて取らせれば、汁が飲めるんだが、僕はまだ飲まない。



食べごろの椰子

 長男桓(たけし)のもとにも<椰子の原生林>を描いた絵葉書が届く。
  日付の118日は日米開戦が間近にった時期だけれども、南の島々はまだのんびりしていた。敦は、南洋の風物を伝える絵や写真に即して語りかけるような筆致の説明を添えている。

 1118日 (全文)トラック()にいる間、ぼくは毎日やしのみを二つか三つずつたべました。だんだんなれてくると、やしの水はサイダーよりおいしく、中のコプラは、みつまめのかんてんよりもおいしくなってきます。じゅくして、しぜんに落ちてきたやしのみは、まずくて、だめなのです。



産地ではストローを差して椰子の水を売っている

        わたしの記憶のなかの椰子

 都筑区の区立図書館から借り出した「中島敦 父から子への南洋だより」(編者・川村 湊 集英社 引用はすべて前掲書による)をここまで読み進んだとき、<椰子の葉繁る南の楽園>サイパンに生まれ育ったわたしのある日の記憶が鮮やかによみがえったのだった。
 
国民学校1・2年生のころだったかと思う。父と連れ立って歩くだけでスキップしたいほどの幸せを感じていたわたしだった。

 ある日わたしは、ジャングルの中の見事な椰子並木を父と二人で歩いていた。ガラパンやチャランカノアのような街ではなく熱帯特有のジャングル地帯の中だった。なんのためにどこへ向かっていたのかはまったく覚えがない。

まっすぐ続く道は、人が連れ立ってやっと通り抜けられるくらい細かった。右も左もおびただしい椰子が群生し、葉の繁りが重なって空も見えないくらいだった。頭上の空だけが帯状に光って見えた。
  ある所まで来ると父が立ち止まった。
 「茂夫、のどが渇いたか?」
  「うん、渇いた」



        サイパン島の椰子の林

33年ぶりに昭和51年(1962年)夏、慰霊でサイパンを訪れた筆者撮影

 しばらくすると椰子林の奥から島民の子が姿を現し、父の前に立った。状況が呑み込めずに立ち尽くすわたしだったが、気が付くと彼は30メートルもあろうかと思われる円柱状の幹を猿の身軽さでよじ登っていった。 つややかで濃緑の実を選んでひねった。「あっ」と思う間の落下だった。高みに見えていたときより2倍も大きい実だった。



ジュースを飲んだ後の、この白いコプラ(胚乳)がまた、ウマい
 果皮に島民の子の操る山刀が鋭く食い込んだ。繊維の部分を削り落とすと固く白い核が現れた。その柔らかい部分に穴をあけるのだが、刀を振るう島民の子のマジシャンのような手の動きに思わず見とれてしまっていた。

小さな両手で抱え込んだ大きな椰子の実を傾けて飲む。椰子の実ジュース(胚乳液)が乾いたのどを気持ちよく潤した。美味しかった。飲み終わるとコプラ(胚乳)を削り取って食べさせてくれた。やはり美味しかった。


      サイパン島に椰子がない…?


 
椰子の実ジュースを飲んだ幸せ体験の記憶とともにわたしが目にした椰子林はサイパン島の原風景として80歳のいまでも忘れえずにいる。

 再び中島敦にもどる。息子の桓に届いた椰子の実の絵葉書はサイパンからだった。

 1128日 (一部を省略)サイパンのやしの木は2・3年前に虫がついてすっかり枯れてしまったので今は一本もありません。やしのみずがのめなくてこまります。

 初めて椰子の実ジュースを味わったわたしの体験とほぼ同時期に書かれた通信である。



 


どうして「サイパンのやしの木は…今は一本もありません。やしの水がのめなくてこまります」となるのだろう???



         椰子の実ココナッツ

緑色の外皮をむいて、包丁でパカッと割るとジュースとコプラの両方が楽しめます


        誤解を解く旅

敦の思い違いだろうか。それならば誤解が生じた根拠を知りたいと思った。

石川達三は、昭和16年5月から7月にかけてサイパン、テニアン、ヤップ、パラオ等の南洋の島々を旅している。動機は未開の土地に対する単純な好奇心かららしいが、昭和18年に見聞や体験をまとめた「赤虫島日誌」を出版している。

敦と石川達三はほぼ同時期にサイパンの土を踏んでいるので、敦の誤解を解く鍵が得られないだろうか…。

「赤虫島日誌」を入手したいと思った。インターネットでアマゾンに注文したところ練馬区の史録書房に1冊あることが分かった。今、手元に確保している。

しばらくの間、<サイパン島の椰子>をめぐって文献探索の旅をしてみたい。
 「未開の土地に対する単純な好奇心」なのではなく、サイパンに生まれ育ったわたしの原風景を大事にしたいのが、これからはじまる旅の動機なのである。

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