編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.531 2015.03.22 掲載

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 自由が丘「トモエ学園」が舞台

 黒柳徹子著『窓ぎわのトットちゃん』
      

   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”

   掲載記事:昭和57年10月1日発行本誌No.13 号名「櫟」

  戦後最高800万部発行の本!
   
       文 
内野 瑠美(主婦 目黒区緑が丘)


 私の手許に一枚の写真があります。左右に小さな門柱。向かって左の門柱に「トモエ学園初等学校・幼椎園」とあり、正面奥に白い建物があります。
 屋根に「巴」の紋印。その下にギリシャ人像の彫刻。白いひさしがつき出ていて、それがトットちゃんが通った「トモエ学園」の講堂です。



  昭和16年、戦時中のトモエ学園の正門
3年後の昭和19年4月、東京大空襲で全焼。トモエ学園の情景を後世に伝える貴重な写真です。中央の男の子は、自由が丘・藤原写真場の藤原洋平さん 

                    
提供:藤原洋平さん

    トットちゃんの遊び場、九品仏

 「トモエ学園」は自由が丘の現在のスーパーストア「ピーコック」とその駐車場のあたりにありました。「ピーコック」の角をすぐ右に折れると、かつては桜並木か続いた川でしたが、今は暗渠となった遊歩道に出ます。この遊歩道がいつもトットちゃんたちの遊びの場所になっていた九品仏への道です。

 九品仏には、かつて池があり、ボートか浮かんでいました。私もこの池で初めてボートをこぐことを覚えました。そこは、オタマジャクシは無論のこと、小さな魚やザリガニの宝庫でした。久し振りに訪れた池は、埋め立てられて住宅地になっていました。我が子のことを考えると、あんな池が近くにあったらと思います。子供たちの遊びと喜びの場所がどんどん失われていくのをつくづく淋しく感じます。



        昭和30年代の九品仏池

 
浄真寺の境内裏にあった九品仏池には小島が浮かび、その周囲をボートで遊べる、楽しい場所でした
 提供:安藤嘉信さん(奥沢7丁目)

 それと同時に今の学校教育というものが、トットちゃんが通った学校のように、子供たち、各々が持っている素質を豊かに伸ばせるような所であったらどんなにいいだろうと思います。
  散歩の途中の菜の花畑で、メシベとオシベのことを学ぶトットちゃんと、百科辞典の中でそれを覚える今の子供たちのことを比較してしまいます。

    ハンゴウスイハンの等々力渓谷

 トットちゃんたちが飯盆炊飯で行く、滝と小川の美しい等々力渓谷は、大井町線「等々力」駅から歩いて5、6分のところ。トットちゃんは、林の中でたきぎを拾い、川でお米をといでご飯を炊きました。今はそのようなことはとてもできません。自然をほどよく残して整備された今の等々力渓谷も、夏なお涼しい風が吹きぬける楽しい散歩道です。

   のびのび教育の「トモエ学園」

 この本は、冒頭に作者が書いているように、「第2次世界大戦が終わるちょっと前まで実際に東京にあった小学校」の話です。
 当時子供たちには、将来は、お国と天皇陛下のために役立つ人間に育てようという教育が主になされていました。
そんな時代の風潮の中で、専ら「個」を中心とした、のびのびとした教育をしていたこの学園のような所があったことが不思議な気もします。

  電車を教室にするというそのユニークな考え方一つをとってみても、この学園の創立者であった小林宗作先生(本名金子宗作)の人柄がしのばれます。



夢を運ぶ電車の教室  提供:藤原洋平さん

 そしてトットちゃんが語る心楽しい数々の子供時代の話の魅力もさることながら、子を持つ親の一人としてこの本を読む時、学園の小林先生、その人が私には格別魅力的な人として映ります。
  心と体にリズムを理解させる遊戯としてリトミック〃の時間を設けたこと。身体にハンディキャップを負う子を保護するだけでなく、その子自身を積極的に生かしていく教育方針など、戦前の教育にしては、ずいぶん新しいものだったに違いありません。


   「トモエ」は永遠に…

 昭和19年の東京大空襲で焼けてしまったトモエ学園は、当時の暗い時代の中の短い期間に、さあっと吹き抜けてしまったさわやかな風のよう。でも風は吹き抜けてしまったわけでなく、作者のような豊かな感受性を育て、自分の持てる物を充分に出し切れる人を、何人も育て上けたということで、十二分に役目を果し終えたといえるでしょう。



トモエ学園の周囲     マップ:丸田起弥

  父・小林宗作とトモエ学園



話す人:金子 巴(ともえ)さん
(昭和音楽短大講師)

 

 父が縁あって三菱財閥・岩崎さんの援助で∃−ロッパヘ留学し、パリのダルクローズの学校で音楽教育方法の一つである、いわゆる「リトミック」を学んで帰国したのが大正14年。「リトミック」というのは、一種のリズム体操のことで、心と体にリズムを理解させる遊戯と考えていいでしょう。

  こういうことは幼児の時からやらなければだめだという思いを強くして、父は帰国したようです。これに共鳴した小原正芳氏と成城幼稚園をつくったのですが、もう一度勉強し直したいと2回目のヨーロッパ行きを決心したのが昭和5年。
  この時は援助してくれる人がなかったので、父の姉の嫁ぎ先にお金の援助を求めています。姉の嫁ぎ先の「金子」の姓を継ぐことを条件に、再度ヨーロッパ行きを果たしました。

 いよいよ自分の理想の教育を実現させる学校として、トモ工学園を創立したのが昭和12年です。ダルクローズの学校の記章が「二つ巴」だったことから、校名を「トモ工」にしたようです。心身の調和を図り、個をつぶさず、柔軟な精神と肉体を養うことを理想としたようです。

 例の教室に、電車を使おうと思いたったのは、電車というものが「夢」を運ぶものと考えたからでしょう。父はヨーロッパにいた時に、オリエント急行にも乗っているのです。
  子供たちも喜ぶに違いないと、最初は東急電車の廃車を譲り受け、後年は国鉄にも頼みに行ったようです。その時の交渉の相手が、のち首相になった佐藤栄作さんで、父の教育論に熱心に耳を傾け、大いに共鳴してくれたと言っていました。

 昭和19年4月の空襲でトモエ学園は焼けおちました。13台もあったピアノがチロチロと燃えていって……。
 それを見ながら父が「今度はどんな風な建物にしようか」と私に言ったことは、今でも心に残っています。



 “トモエ”の思い出

     
  話す人:藤原 洋平さん(自由が丘・藤原写真場)


 
昭和16年にトモ工学園の幼稚園に入園してそのまま初等学院(小学部)に入学しました。
  例の電車(の教室)は高学年用の教室になっていたのかなあ……。僕は普通の校舎で勉強しました。

 僕の家から数分の所に学園があったのに、途中道草をくって、一時間くらいかかって行ったこともあります。遅れて行っても怒られた覚えはありません。今で言う、はみ出しっ子や問題児みたいな子も、あまりコンプレックスをもたいないですみました。

 昼は弁当持ちだったけれど、戦時中のことだから、野菜のごった煮のようなものや、汁物が時々給食のように出た記憶もあります。

 僕は疎開をして短い期間しかトモエにはいなかったのだけれど、自由で、うるさいことを言われなかったということが印象に残っています。

          インタビュー・文:内野瑠美





















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