編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:伊奈利夫
NO.534 2015.03.25 掲載 

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 川崎が生んだ童女魔力の女(ひと)

 歌人・小説家
 岡本かの子――
その生涯

      

   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”

   掲載記事:昭和57年3月1日発行本誌No.10 号名「桃」

  かの子49年の生涯を探る
   
       文 
野沢 明美(学生 港北区日吉)


  ともすれば かろきねたみのきざし来る  
       日がなかなしく ものなど縫はむ

         歌集「かろきねたみ」(1912年、青鞜社刊)から


 かの子は明治22年(1889年)、多摩川河畔二子の旧家に生まれる。旧姓は大貫、本名カノ。生家大和屋は代々、幕府及び諸藩の御用商をつとめ、河畔に数百年も続いた大地主であった。

 跡見女学校(現跡見学園短大・文京区)に入学した頃から和歌の習作を始め、卒業後、与謝野鉄幹・与謝野晶子の『明星』に歌を発表。後に『スバル』の同人となる。



現在の川崎市高津区溝の口、大山街道に面した岡本かの子の家
 
幼いころから腺病質のため青山の本宅の父母と別居し川崎・二子のこの家で養育母に育てられ、その養母から短歌を初めて習う

 明治43年(かの子22歳)、画学生・岡本一平と結婚、太郎(画家・彫刻家 岡本太郎)を生む。

 岡本一平は、束京美術学校卒業後、東京朝日新聞に入社。軽妙な漫画と短文で新生面を開いた人である。
 友人から「かの子を連れて銀座を歩ける一平は偉いよ」と言われた。かの子は大層肉付きのいい体格で、美人タイプとはいえず、洋服も大胆なものを好んだため、異様に目立ったのである。しかし一平は彼女を観音菩薩のように愛しんだ。



横浜港からパリへ出発する親子。左から夫・一平、かの子、太郎

 二人の在り方は正常な夫婦関係とは言えなかったが、人間として深く結びついていた。かの子が望めば、彼女が連れてきた男性たちと同居することにも耐えた人である。
 昭和14年(1939)2月。かの子は生前、信仰の篤かった観音の日、18日に49歳の生涯を閉じた。

     一平から太郎への手紙

 おかあさんは眠られた。おかあさんはふだんの言葉で火葬が嫌いなことが判っている。そして武蔵野が好きだ。僕は極力骨折ってモダンな多摩墓地に松を2本取り入れた瀟洒な墓地を手に入れた。そこでおかあさんは生れ故郷の土に和して肉体を毀らぬ彼女の好みの土葬の形で眠られている。
 それから君も知っての通り、おかあさんはオシャレだ。病気になってから眠られるまで自分のやつれた姿を見たくないと言って鏡を絶対に見なかったほどの人だ。

    太郎から一平への手紙

  悲惨ではありましたけれど、お母さんの死は美しかったと思います。燃えつくした炎の美しさです。
 お母さんのそばに近づくものは、お母さんの情熱に焼きつくされずにはいなかった。そのような浄火を持っていた人です。






  母・かの子を語る岡本太郎



岡本太郎

(港区南青山の自宅で取材)


 
彼女には母性というものは、全くなかった。僕は、母親として面倒をみてもらった記憶はないよ。
 柱やタンスに縛りつけて、泣き叫ぼうと何しようと、振り返ってもくれなかった。ただ、あの断髪の後ろ姿だけが“母”を感じさせましたね。いつも仕事をしていた人でしたよ。

 よく世間では影響は? と訊くけれど、僕の場合は全然ない。ところが、全く影響が無かったことが結局、影響なのでしょう。

 実際、母と僕は性格が良く似ていましたから、同極同士は反発するように、一緒に居てはいけなかった。母が逝った時も、僕はパリに居たし……。


 二子神社の文学碑『誇り』




 かの子と一平が愛を誓い合った二子神社境内の一隅に、蒼穹(あおぞら)にむかい、白い炎を吹きあげているような美しいモダンアートの彫刻がそびえる。

二子新地の地元有志の発議によって計画され、太郎氏の制作から成り、「誇り」と名づけられた文学碑である。

 除幕式には、かの子が最も信頼し敬愛した川端康成によって祝辞が読まれた。



上の文学碑の傍らに添えられた息子・太郎の書による碑文

「この誇りを、亡き一平とともに、
かの子の霊に捧ぐ 太郎」――

  二人の愛の記念碑でもある。

大海洋(わだつみ)の果の果なる天心 地軸にかわが生命(いのち)

 2月28日は岡本かの子忌である。


主な作品 
 
歌集
 「かろきねたみ」「愛のなやみ」「浴身」
     「わが最終歌集」
 小説 鶴は病みき」「生々流転」「母子叙情」
     「河明り」

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