編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.424 2014.12.21  掲載

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   捜真女学校の巻



  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和56年3月1日発行本誌No.4 号名「椿」
   
      捜真女学校

            〜〜〜 最寄駅反町 〜〜〜


捜真女学校下校時の生徒たち


 創立111年のミッションスクールの伝統を受け継ぐは、明るく素直な生徒たち。
 
 栗田谷坂のいただきのシックなサーモンピンクの学園はピッカピカの広〜い廊下に高級ホテル並みのトイレ、全校生徒が一堂に集まる巨大で荘厳なチャペルなど……。

 この環境こそ、生徒の個性をスクスク伸ばす源だ。



        国際性を身につけた世界市民に・・・


                                      捜真女学校・校長 日野綾子



日野綾子校長











 『捜真』とは、真理をさがす≠ニいう聖書の御言葉からとられた。捜真の教育は真実な人間形成をめざす。人間として正しく、温かく、思いやりの心を持つこと、そして神の前につねに謙遜な人間であるように……。

 捜真女学校は、創立以来95年間このことに努力を続けております。学生の本分は勉強にあることは当然ですが、本校はさらに特徴ある勉学に努めています。

  振り返れば95年前、本校はミナトが見える山手67番の地にキリスト教の私塾としてアメリカ人宣教師の手によって始められました。その後、優れた教育者で信仰の深い人、カンヴアース先生の手に継承され、その校風は育てられました。それが今日の捜真女学校発展の基礎となっております。

 カンヴアース先生は先見の明のある人でした。「山手にはすでにいくつかのミッションスクールがある。まだ、学校のない所へ移りましょう」、とおっしゃり、決意された先生。その引っ越し先が現在の神奈川区中丸の地です。

  時は明治43年、この辺にはキツネやウサギが出た頃だそうです。まさに東横沿線の草分けだったといえましょう。

 現在の学校規模は、小学校(男女)、中学部、高等学部(女子)1500人。
  小学校は1学級30人、2組編成の小数教育。 校内自然公園の草むらで昆虫と仲良しになったり、音楽や絵に全児童が楽しそうに取り組んだり、広い校庭や室内プールで元気に運動したり、情操豊かな子供時代を謳歌しながら、学力も着実に大らかに伸びています。
 中高教育も基礎なので、全学課に優秀な教師陣が熱心に指導。とくに英会話はクラスを半分にし、外人教師が教える。毎年数人の生徒が海外留学、また本校へも外国からの留学生を引き受けています。それも、若い日に国際性を身につけた世界市民を育成したいと望んでいるからであります。

 毎日の学校生活の中心は礼拝の時。沈黙し全智全能の神を思い、教師から聖書に基づいた信仰的人生経験の話を聞きます。放課後のクラブ活動も盛ん。生徒たちは文化部、体育部で若さを昇華させています。

 本校生徒はほとんど進学希望。上学年での選択科目はいろんなものがありますので、教師一人に生徒数名のクラスもあります。

 捜真女学校の雰囲気は「とても温かい」とよくいわれます。そのためでしょうか、4世代、3世代、2世代、兄弟姉妹と、一家族から多数の人々が学んでいるのは喜ばしいことです。本校に優れた卒業生を数多く輩出、なかには社会的に有名なひとびと、無名ながら他人を慰め励まし、その重荷を担いあって生きるひとびとが実にたくさんおります。

 「自分がヒトからしてほしいと思うとおり、そのようにヒトにしなさい」この聖書の御言葉が“捜真”で学んだ者の心の灯となって、それぞれがその人生を歩んでいることと思います。私はいま、そんな内外を考えると、感謝で心が溢れるばかり。捜真女学校とは、そんな学校です。


 
山手67番地「日本最初の聖書印刷所」が捜真女学校発祥の地



日本初の聖書印刷所

 ブラウン夫人が開いた私塾「捜真女学校」

 明治維新で開港された横浜、ここに多くの宣教師たちが上陸した。その中の一人、ブラウン博士は夫人と共に明治6年65歳の身で日本宣教の使命に燃え、横浜に来る。
 山手の外人居留地67番地、現存の港が見える丘公園のそばで、翌7年から独自の新約聖書の和訳に力を注いだ。

  ついに明治12年、日本最初の日本語訳新約聖書を完成させた。ここが初めて日本語に訳された聖書が印刷された場所であり、ブラウン博士の夫人が日本の子供たちの教育に傾注、私塾を開いた所。この印刷所こそ、捜真女学校が誕生した場所である。



        明治43年、神奈川の新天地へ



戦前の捜真女学校全景

 20年間住みなれた山手34番地から、人家もまばら、時々キツネや野ウサギが出没する淋しい神奈川の丘の上に移って、今後生徒は集まるのだろうかという不安や、教室の建築はどうなるのか、多くの心配を持って確保された一本松の地。
 
 そこにアメリカの教会の人々の資金援肋を得て、つぎつぎに建築が進み、見事な乙女たちの城が出来上がった。

 童話の中のお城のような校舎

 学校の教室からは、遠くに続く麦畑のかなたに一本松が見え、その遥かかなた東京

湾の海が空に繋がり、景色は素晴しかった。
 しかし荷馬車が通れるくらいの道が栗田谷の丘の尾根についているばかり、雨が降ったら泥んこで歩くことさえ困難。
 カンヴアース先生や先生方がバケツに水を入れ、乾いたタオルを持って通学生を待ち受けてくださった。
 白い塔のある校舎は、まるで童話の中のお城を思わせる。当時の若者は、大変憧れて、「自分の子供に女の子が出来たら、ぜひここに入れたい」と張り切って丘の上の学校を訪ねたと伝えられる。

  
捜真の母 カンヴァース先生


 「卒業しても、たびたび捜真を訪ねなさい。年月がたって、たとえ先生が入れかわり、校舎が建てかえられても、捜真は今なお、あなたがたの母校です。捜真を忘れないで、訪なさい」。

 生前、教え子によく言った言葉である。知らぬ国の横浜村へ33歳で赴任。国籍を越えて日本を、捜真を、また教え子たちを、こよなく愛し、しかも一生を捧げて愛された。
 先生の愛情こそは、全世界と全人類とを愛する愛に通じるものがある。

 昭和1012478歳で昇天、日本に来て45年間、生涯日本の子女の教育に献身された先生の死を、当時一般人の私事を取り扱っことのないNHKが、異例の取りはからいで日本全土に放送するに至ったことでも、カンヴアース先生の偉大さがうかがえる。


カンヴァース先生

         捜真の辿った時代を垣間見る



大正時代の塔と校舎


戦前、宣教師館前を掃除する生徒たち


昭和23年全焼の校庭に仮校舎が経つ

昭和20年5月の横浜大空襲で全焼



平成25年(2013).6.18 の校舎

撮影:岩田忠利






  
丸焼けからの再建は鶴見・松尾さんのお陰

 
戦時中、日本陸軍が校舎の一部を使っていたということで標的にされ、昭和20年の横浜大空襲できれいさっぱりと校舎が焼けてしまいました。
  カンヴアース記念講堂の焼け跡に、卒業生や先生方、生徒たちが自然に集って『もう一度、必ずここに校舎を建てます』と涙ながらに祈りました。多くの人の祈りとお力添えでできた母校の灯を、ここで消してはならないと必死でした。お里がなくなりますものね。

 当時校舎を建てると言っても日本中が何も無い時。材木も配給、その配給を受けるお願いに方々へお弁当を持って行きました。
 お役人に会えないとわかっても門の前から立ち去れず、一日中お役人の帰るのを待ったこともたびたびでした。


沼野 作代

大正10年卒。旧国語教師


 しばらく関東学院に仮住いしながら、再建のために奔走いたしました。

  何のめども立たず関東学院の方から合併の話が出て、進退を決めなければならないその日の前日、一度しかお目にかかったことがない生徒の父兄の顔がフッと浮びました。それが鶴見の建築家・松尾組の社長、松尾嘉衛門さん。

 私は必死だったんです。松尾さんはこうおっしゃるのです。
 「一度しかお会いしていないんだが、女の人がこれほどまでに熱心に、誠心誠意努力している姿を見て感激しました。私が建築費を立て替えて、建ててあげましょう!」
  思わず立ち上あがり泣きながら、お礼を申し上げたことは、今でも忘れられません。

 材木も横浜金沢にある米軍の物を進駐軍が運んでくれたり、ガラスが手に入らないで困っていると、敵国であったアメリカの教会の人たちが集めて送ってくれたり。お金を返すあてもないのに松尾社長は新材で校舎を建ててくださったのです。

 松尾さんのお陰で、捜真女学校の名前をつぶさず、この中丸の地へ帰ることができました。



 各界で活躍する卒業生の思い出






歌手。横浜文化賞受賞。警察友の会副会長。
横浜の姉妹都市フィリッピン・マニラへは
15回、アメリカ、カナダ・バンクーバーにも18回訪問。歌を通して国際親善に努力。
   音楽の道は先生のすすめ     
                    
渡辺 はま子


 私の音楽は捜真の讃美歌から始まりました。毎朝の礼拝で、音楽の先生が私に気をとめてくださり「ぜひ音楽の道に」と勧めてくださったのです。そして武蔵野音楽学校へ。

 捜真の影響で、宗教音楽が歌いたかったのですが、オペラの道へ。ちょうどその頃から戦争にかかりオペラという時代ではなくなり、「人の心を歌う」歌を持って、ほうぼう慰問しました。

 たびたび外国へ行きましたが、英語は捜真でたたき込まれたので、一度も不自由を感じませんでした。
 今でも捜真のバッヂをつけた生徒さんを見ると声をかけたくなるほど、母校を誇りに思っています。



渡辺プロダクション副社長、渡辺音楽出版社長ほか十数杜の役員を兼任。
万国博ポピュラー部門をプロデュース。現在日本のポピュラー音楽の向上に努力。



   思い出深い水泳大会
                               渡辺 美佐


 戦争が激しくなるまで横浜・松ケ丘に住んでいました。あの頃一帯は林と野原。家から栗田谷を通り学校へ行く道すがらオニユリ、ススキを摘んだことがとても懐かしく思い出されます。

 ロマンチックな塔のある学校、お友達とおしゃべりを楽しんだ藤棚はいま、どのようになっているのでしょうか。

 クリスチャンの家庭に育ち、毎朝の礼拝に出席するのが楽しく、また、それに間に合うように登校するのがとても辛かったのを覚えております。

 思い出深いのは水泳大会。水泳部が新設され、学校にはプールがなくて、東神奈川のプールまで練習に出かけたものです。
 そしてなぜか3市対抗試合に最年少選手で出場。他校の大きなお姉様方の谷間に真っ赤な水着。9選手でレースをする予定が、なんと3名も欠場しギリギリ6位に入賞……。生まれて初めて新聞に自分の名前が載りました。




   詩は人の心に捧げる“祈り”
                                  阿木 耀子


 捜真へは、神様のお話が聞けるからという母の意志で入学。中・高の6年間通いました。
 その頃、私は自意識過剰で自閉的、なぜ友達と楽しくはしゃぐことが出来ないのか、なぜ一人でお弁当を食べるのかと自分を批判しながらも、じっと自分の中に何かを押さえ込んでいたような子供でした。
 しかし、在学中、礼拝や学校生活の中で、何げなく話される日常生活の精神教育が受けられたことに感謝しています。

 詩を作る時、「人の心に捧げる祈り≠ナあるべきだ」と常々考えるのですが、信者でもない私が宗教的な物の考え方が出来るのもこの頃の影響でしょう。

  御殿場・自然教室での修養会、特に中2の時、乙女峠へハイキングに行き、おにぎりをほおばったことが懐かしい思い出です。



作詞家。「港のヨーコ、横浜・横須賀」の作詞でデビュー。「横須賀ストーリー」「魅せられて」などのヒット曲を夫・字崎竜童とのコンビでつくる。テレビドラマの脚本にも能力発揮、ただ今、活躍中。



   思い出は音楽と英語
                             吉原 すみれ


第一に「音楽」と出会ったこと――。捜真に在学中、鈴木寛一先生との出会いがなかったら、音楽の道に進むことはなかったでしょう。また音楽の道に進もうと決心し、一生懸命、音楽の勉強をしましたが、生徒としては、かなりわがままな学校生活をしていたと思います。これも先生方が温かく見守ってくださったから出来たのでしょう。

  第二に「英語」のこと――。在学中、徹底的に教育されましたので音楽の道に進み、海外へ出かけた時もびくびくすることなく、助かりました。

 


パーカッショニストとして第一線で活躍中。
昭和43年ジュネーブ国際音楽コンクール・打楽器部門で第1位獲得。続いて現在に至るまで、ヨーロッパで毎年演奏活動を行う。
52
年・ミュンヘン国際音楽コンクール・打楽器部門第1位。55年・サントリー音楽賞受賞。


昭和48年本校卒、上智大学フランス語科卒。昭和52年TBSへ入社、アナウンサー。
○テレビレギュラー番組「三時にあいましょう」
○ラジオ番組 第2土曜日ザ・コンサート*x内孝雄と共に。月曜日から金曜日までアイスタジョッキー、ザ・青春≠担当。



      楽しかったあの頃
                               三雲 孝江


  ツタのからまるチャペルで……という学生時代の一節を絵に描いたような学校が、我が母校捜真です。
 毎朝反町駅から長い生徒の列、フーフ一言いながら坂の上にある学校へ登る姿もこの付近の名物です。

 私が通っていた頃に比べ今は校舎全体がきれいに化粧直しをして立派になり、高級マンションの感があります。
 が、昔ながらの気質は変わっていません。優しく穏やかな心、思いやりの教え……。教師と生徒の関係が殺伐としたものとなってしまった昨今ですが、捜真では温かい人間関係が健在です。

 東横線で、明るい表情の後輩たちに会うたび楽しかった学生生活が、甦ってきます。


掲載記事:平成10年9月30日発行本誌No.70 号名「椴
(とどまつ)
 School  Profile
●生徒数  
 中等部…
568名  高等部……553名  総卒業生数約1万名

●沿革

 1886年(明治19年)横浜山手67番地に米国バプテスト派宣教師ブラウン夫人によって英和女学校という校名で創立。クララ・A・カンヴァース校長時代の1892年に捜真女学校と改称するとともに1910年(明治43年)現在地に移転。

●教育方針・校風
 校名どおり「真理を捜し求める」が基本方針。毎朝の礼拝、聖書の勉強、修養会、御殿場での自然教室などを通じてイエス・キリストによって示されている神の愛に基づく人間形成を行っています。


●年間学費……50万円

●卒業生の進路
 100%が進学。うち大学と短大で80%。医薬、法律、経済、理工、情報部門への進学が増えているのが特色。

      ★学校自慢
1.
2代目校長カンヴァース先生の教えを校長・日野綾子先生が受け継ぎ、その精神が在校生・同窓生に浸透、結束力が強いこと。
2. 英語に強い生徒が多く、毎年いろんなスピーチコンテストで優秀賞を受賞する。
3. 同窓生が中心となった募金で造ったチャペル
1100人が座れる外国産材のムクの椅子に巨
大なパイプが林立するパイプオルガン、太陽に映えるステンドグラス)


ステージ゙後方は、パイプオルガンの巨大なパイブ
4. 有名画家となられた同窓生や学校関係者の作品が数々展示された廊下は、まさに美術館並み。
5. 年間泳げる25メートル室内温水プール。

 ウチの学校のここがすごい!

その1 教室、廊下、トイレ、外観など、どこもきれい!
その2 創立111年の伝統と、樹齢100年の藤の花など四季折々の自然が楽しめる1万坪のキャンパス。
その3 親子2代の捜真生はザラ。曾祖母から4代続いた捜真生の家(写真下)があるほど、みなこの学校が大好き!


  4代続く捜真生の家、金子愛子さん宅

 
後列右端が2代・金子愛子さん(昭和8年入学)、隣が1代・横溝クニエさん(愛子さんの母。明治38年入学)、その隣は三戸部恵美子さん(愛子さん長女。昭和32年入学)と岩村加恵子さん(愛子さん次女。昭和32年入学)。前列2人は昭和51年入学の愛子さんの孫。
その4 家族のような温かさ。家庭的雰囲気があって学年の結びつきと生徒間の絆が強いこと。一本の電話の話があっという間に20人、30人に伝わるその速さ!

  名物先生
 日野綾子先生(学院長・理事長)は中等部から現在まで捜真ひと筋に74年。地下から4階まで一日何往復も歩く健脚ぶり。また礼拝でのお話、自然教室でのT時間講話を何回もする87歳のスーパーウーマン。
制服
 有名先輩  ※上記に登場の5名の有名な卒業生のほかに以下の人

富田恵子(女優)

中村うさぎ(小説家。エッセイスト)

坂本千夏(動物と子供の声の声優)

角田美津代(小説家)

久保恵子(タレント)

 連絡先:捜真女学校
          横浜市神奈川区中丸8番地

            電話0454913686
  ホームページ(捜真学院)
 
http
//plaza6mbnorjp/soshin/


  ◆前半の本誌4号、取材スタッフ

 
岩田忠利 / 室井絹子 / 矢部黎子/ 板山美枝子

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  ◆後半の本誌70号、取材スタッフ

 
    岩田忠利 / 品田みほ / 高津利恵


    取材協力

 岩崎有希子・前田智子・山室紀子・森沢恭子の高等部3年の皆さん
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