編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.429 2015.01.07  掲載

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  田園調布中等部・高等部の巻



  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”


   掲載記事:昭和56年7月1日発行本誌No.6 号名「榎」
   
   

   
調布学園


     〜〜〜〜田園調布〜〜〜〜


 田園調布の町づくりがはじまった大正15年。
 川村理助先生を迎え、理想の学園として誕生。以後半世紀の伝統の中に新しい精進の息吹は萌えて。


 “調布”今昔



 多摩川に(さら)す手作り 

 さらさらに 何ぞこの児の

ここだ(かな)しき

   万葉集巻14東歌3373



調布学園屋上から望む亀甲山古墳




昭和初期、英国風の校舎









 この歌を読むたびに、美しく澄んだ砂礫の多い流れに、調布(ミツギヌノ)を晒している万葉の乙女たちのささめきを聞く思いがする。万葉の昔から、この武蔵野の一端に多くの人々の営みがあったことはいうまでもない。「調布」なる地名は、そのはるかな昔、人の息吹を今に伝える快いひびきを持っているのである。
 かつて万葉人が織った「調布」は、遠く奈良の宮処に運ばれて、宮人たちの衣を飾ったにちがいない。


 今、茫漠たる当時の武蔵野の面影を見ることはできないが、悠久なる歴史を秘めた地名を調布学園が持っていることはうれしい。

 武蔵野台地の南端に位置し、多摩川に接するこの緑の台地に、わが学園が発足したのは大正15年6月5日のことであった。
 同年1月1日には、目蒲線「田園調布駅」が誕生しているので、同駅と調布学園とは、期せずして同じ歴史を持つのである。

 創立当時には、駅からわが学園は目と鼻の先に感じられ、周囲は、林や畑地だったという。今は、高級住宅地となってしまった。
 田園調布駅東口に降りて、すぐ小さな坂道を下り、再びつま先上がりにいくと、桜並木のトンネルに出る。
 花のころだと桜のトンネルをくぐって、しばらく進み左手を見ると、そこに、撫子のマークをつけた白い調布学園の校舎が見えてくるであろう。

 撫子は、調布の象徴であり、淑やかなその姿と清潔さは、ひっそりと、しかも、したたかに生きる日本女性の姿でもある。

 白い4階建の校舎は、ゆたかな緑に囲まれ半世紀の歴史を語るがごとく、特に校門に立つ欅の巨木は、スクスクと雲をついて伸び、調布学園を大きく抱擁しているかのようである。

  教室の窓からみる田園調布一帯は都内でも数少ない緑多き住宅地であり、中でも多摩川に面して続く一連の円丘の数々は、「亀甲山古墳」を中心とする大前方後円墳と小円墳の姿である。
 都内でも唯一の整美なプロポーションを持つ「亀甲山古墳」の被葬者は、おそらく多摩川を制した「王者」であろう。
 悠久の眠りにつく王者たちは、かつて、この台地上に生活し多摩川流域の開発に従事したものであろう。

 調布学園は、そんな古代的風土の中に、半世紀の歴史をつちかってきた。

             荒竹清光(地名を守る会・運営委員)




調布学園校門











   銅像の御曹司

調布学園理事長

   西村一郎








創立者・西村庄平(初代理事長)の銅像
みずからモップを持ち清掃していた姿です

 


 調布学園は大正15年に創立、本年で55年になり、当初調布女学校の校舎が畠の中に建てられたときは、田園調布の駅からよく見えたというくらい随分昔のことです。東横線はまだ開通しておりませんでした。

 東横線といえば、私は昭和7年に府立高等学校に入学し、この年に同校の校舎(現在の都立大学)が建てられてここに移り、駅名も「柿ノ木坂」から「府立高等学校前」に改められ、その頃の東横電車には若い女性の車掌が乗っていて目についたのを懐しく思い出します。

 調布学園は西村庄平先生が創立し、川村理助先生を初代校長に迎えました。西村先生は日本郵船の船長として永らく海外各地を巡遊してわが国の将来の発展は教育にまつと考え、私財を投じて女学校を創設されました。
 川村先生は東京高等師範学校の教授を経て、ご自身の長い年月の非常に厳しく苦しい体験の中から悟られた「捨我精進」の道を全国各地を回って説かれておられましたが、このとき校長を引き受けられ、学園の教育の方針として「精進道」を実践し、有為な日本婦人の育成をめざして堂々と女子教育の発展に尽くされました。

 創立以来50余年の星霜を経て、戦争中の苦しい時代を克服して次第に発展してまいりました。昭和42年には川崎市の生田に調布学園女子短期大学を設立して英語英文科を設け、静かな環境の下で学生は勉学に励んでおります。

 学園創立以来の卒業生の概数は幼稚園が3050名、高等学校が7860名、短期大学が1680名であり、国際化する状勢の中にも伝統のある気品の高い教育をめざして努力いたしております。




   撫子(なでしこ)の心を語る


 麦畑の中に生徒11人、先生2人で始まった牧歌的な学舎も建てかえられ、創立時を知る人も学校を去った。しかし、その教えは今も卒業生の心に残っている。



 神奈川県生まれ。昭和20年卒。第6回日本作詩大賞童話賞受賞。日本詩人連盟賞受賞。
 日本童謡協会理事。日本ペンクラブ会員。
 著書「シツレイシマス」ほか6冊。「ドラキュラのうた」「ニャニュニョのてんきよほう」「ぼくんちのチャボ」

 調布学園の思い出  詩人 小黒恵子


 遥かな日の思い出は、時にやさしく美しくよみがえるものです。私が調布学園にお世話になったのは、戦時中の総てが灰色の時代でした。学校工場、勤労動員、防空演習、木銃、モンペ姿、日の丸鉢巻等々、戦時下の思い出が浮かんで来ます。

 でも自然は、いつもやさしく語りかけてくれました。桜並木の花吹雪の美しかったこと、ちららひららと舞いながら、肩に頬にふりかかったあの感触、涼しい青葉の桜並木、紅葉に染まる桜並木、裸木の実しい桜並木、その並木道を少女の私は、なにか漠然とした未来への希望を抱いて歩いたものでした。見上げる空は果てしなく青く美しく、風もさわやかでした。

 その頃出逢った一冊の本に、『フランダースの犬』がありました。人との愛、動物との愛、こうせよという戦時下の四角い教訓とは、全く異ったものでした。悲しい迄の愛の美しさに、強烈な感動を覚えたのでした。
 日増しに戦いが激烈化する暗黒な時代に、こうした心をゆさぶる本に出逢えたのは幸せでした。『フランダースの犬』は、現在の私に、大きな影響を与えたのでした。


 

 思い出は30年を飛び越えて    

                      カネボウ化粧品且謦役
 古島町子



洋風でところどころペンキのはげ落ちた、家庭的な雰囲気に満ちた田園調布駅を乗り降りしたのは、今から30年も前のことになる。
 私が在学していた頃は、木造2階建ての小じんまりとした学校であった。校門へ通じる道の両側は、見事な桜並木で葉桜の頃には、ケムシに悩まされたものである。

 母校の想い出ということになると、結論的には、「余りいい生徒ではなかった」というところに落ちつきそうなことばかりである。「精進」ということを教えられたが、きっと先生は、教育方針として、良妻賢母型のお行儀のいい子女をと思っておられたのであろう。
  先日久しぶりに恩師にお目にかかり「出来の悪い生徒でしたから」とやや謙遜のつもりで言ったところ、どの先生も「その通り」という顔つきで深くうなづかれたので改めて「出来の悪さ」を自覚したようなわけである。

  一番印象に残っているのが、講堂の床掃除と放課後のバレーボールの練習と、遅刻をして通用門で風紀係にうっかり改札口とかん違いして定期券を見せてしぼられたことぐらいで、不思議に勉強の中味と教室の風景は浮かんでこない。それだけに懐かしい母校であり、充実した女学校生活であった。


 
 東京日本橋生まれ。昭和24年卒。28年カネボウ化粧品鰍ノ入社。
 毎日新聞におしゃれ″を連載、反響をよぶ。さらにフランスのヴォーグ社との業務提携では立役者となる。

 現在、同社取締役・美容部長。




   カラスの特攻隊
                   邦楽・篠笛奏者 福原百華(本間尋子)


 紺のセーラー服と黒の靴下に身を包み、田園調布の坂道を腕時計とにらめっこしながら猛スピードで駆け抜け、朝礼のベルと同時に教室に飛び込むこと6年。まれには、教室へ入ろうとする担任の先生を押しのけてまで滑りこみ、危うく遅刻を免れたということも……。これぞまさしくカラスの特攻隊。

 調布学園での思い出といえば、これを抜いては語れません。このカラス軍団の有力メンバ−だった私が、なぜ邦楽の道に進んだのかは、直接には高2の時、思いがけず篠笛にめぐりあったことによるのですが、一番はじめに邦楽への扉が開かれたのはちょうど調布学園に入学したばかり、全校定期音楽会の時でした。午後専門の方々による「雅楽」の演奏を聴き、木や竹から流れでる不思議な音色が心に刻みこまれたのです。
 その後、音楽好きの私はずっとフルートを習い続けていましたが、刻みこまれた雅楽のひびきは、次第に大きく心の中にふくらんでいきました。

 後に大学受験の時、迷うことなく邦楽科をえらび、卒業後もそのまま邦楽の世界に飛びこんでいけたのも、その時の感激が忘れられなかったからだと思います。
 まさに中1の時の定期音楽会の一日が、私の一生を方向づけてくれたのです。


 今春、東京芸大邦楽科卒業後、福原百之助氏(人間国宝)の愛弟子としてデビュー。
 現在、国立劇場・明治座などで囃方(はやしかた)として活躍中。
 新丸子在住。


  ◆以上の「調布学園」編集スタッフ…… 写真:写真部/納谷祐治  似顔.地図:新谷みえ子  スケッチ:来原貴美ほか
  掲載記事:平成10年10月25日発行本誌No.71 号名「梔(くちなし)

 田園調布学園中等部・高等部



三角アーチの校門

 かの憧れの田園調布の桜並木を歩くこと8分。

 72年の伝統に培われた落ち着きと、若さはちきれるパワーが同居する調布学園がある。

 洋風三角アーチの校門をくぐると、そこには清楚な乙女たちのさざめきと、未来への道が開けていた。


 School Profile

●生徒数  中等部‥・634名/高等部・・・688名 卒業生総数……約15000
●沿革
 
1926
(昭和元年)外国船船長であった西村庄平氏により「調布女学校」として創立。1947年(昭和22年)学制改革により、調布高等学校と調布中学校となり現在に至る。
●建学の精神
「捨我精進(しゃがしょうじん)」……わがまま勝手を抑え、自分なりの目標に向かって努力を続けること。自分を見つめ、自ら考え、積極的に行動する事を通して、未来への道か大きく開けていくという事。
●年間学費   50万円(次年度以降
●卒業生の進路
……約80%か4年生大学進学(現役合格率約90%)

    学校自慢30

生徒

★全員、心が素直
★勉強はもちろんだけど、行事にも手を抜かない。文化祭や体育祭にも全力投球!
★読書感想文コンクール、最優秀賞をはじめ入賞者続出!



読書感想文コンクールに入賞の諸君

行事 

★中3、高1の夏休みを利用してオーストラリア、アメリカにホームステイ。(希望者各約30名)
★中2の体験学習として、山形の尾花沢でファームステイ。生まれて初めての農業体験、花笠踊り参加など、一生の思い出に。
★渋谷公会堂での定期音楽会

授業

★中1時に「礼法」という時間がある。いわゆる「礼儀」「作法」を始め、人として周囲の人と気持ち良く暮らすために必要な、思いやりの心を持ったコミュニケーションをはかる方法を学ぶ授業。
 調布生の基本はここで養われるのかも。



茶道を通して礼儀・作法を学ぶ

精進の鐘

★校舎屋上にあって、学園の歴史を見守りつづけてきた鐘。現在も毎朝8時30分に打鐘され、生徒・教職全員が黙想し一日の始まりを迎える。

先生と生徒の触れ合い、精進日記

★先生と生徒の交換日記。先生から必ずメッセージが書き込まれて返って<る。
 ウチの学校のここが
           すごい!
その1

 
キャンパスから歩いて5分の場所にグラウンドがある。23区内では珍しく広い土のグラウンドで、200mトラック、テニスコート4面、弓道場なども完備。


弓道場で弓を射る
その2

 ヴァイオリン・ビオラ・チェロなど弦楽器が揃っていて、クラス全員での合奏も可能。


楽しい弦楽器の演奏
その3

 
学習体験旅行(修学旅行にあたるもの)は、ただ単に記念旅行をするのではなく、1年の準備期間を費やし、「見て、聞いて考える体験」「問題の発信地を訪ねて発信者に接する体験」を目的とした旅行。昨年は九州地方で、長崎や水俣を回った。
 もちろん、その中で生徒たちの心に思い出もいっぱい!


その4

 
3万数千冊の蔵書と落ち着いた読書スペースのある図書室も自慢の施設。

その5

 
最寄駅が2つ(東急東横線、目黒線田園調布駅、東急池上線・雪谷大塚駅)あるからアクセスしやすい。

   名物先生

西村弘子校長
 生徒たちのお母さんのような、お姉さんのような存在の先生。NHKテレビで「おとことおんなの生活学」という教育セミナーの講師を務めたこともあるというアクティブな先生。

荒川知子先生
 とにかく石が好き! 石を眺めながら、タイムマシンで時間旅行しちゃう石めずる姫君。

         

      制服



・夏服は88年に生徒たち自身で選んだデザイン。白、グリーンのベスト、セーターで個性に合わせた上品なおしゃれが楽しめる。

・冬のセーラーは、創立以来変わらないデザイン、“田園調布のカラス”(?)と呼ばれながらも、伝統にプライドを持っていて、生徒にも変わらず好評。




   有名先輩


岡野薫子
(児童文学作家)

帯 正子(小説家)

野口ふみえ(女優)

山本舞衣子(フリーアナ。元日本テレビ)

月城かなと(宝塚歌劇団雪組の男役)

古島町子(潟Jネボウ 顧問)

北村昌子(女優)

平井さち子(俳人)

福原百華(邦楽・篠笛奏者)


 連絡先:田園調布学園中等部・高等部
 
         〒158-8512 世田谷区東玉川2-21-8
                   TEL.03-3727-6121

      ◆編集室取材スタッフ

   品田みほ (反町) 高津利恵 (中山)

        
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