編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.422 2014.12.18  掲載

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 投稿「思いつくままに」



  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和55年12月1日発行本誌No.3 号名「柊」
 
私の仕事

 天候と野菜・果物

横畑仲継
鶴見区馬場 三次青果経営 40歳



   野菜果物の小売業である私にとって一番嬉しいことは、買い求めたお客様が味″をほめてくださることです。毎日市場で仕入れする時、産地や品質、味をよく調べるのですが、一年を通じてほめてもらえるような仕入れは大変難しいものです。とくに煮たり焼いたりできない果物は、なおさら……。

  それはなぜか――。答えは天候次第≠サれで生産量と味が決定するからです。
 天候って本当に怖いと思います。たとえば昨日が30度の気温、ところが今日は25度、もう奥様方がつくる家庭料理は変わるのです。果物の食べ方も変わります。

  生産地で天候に恵まれせっかく立派な産物が出荷されても、消費地で気温が異常に高かったり低かったりすると、もう身体に受ける感覚で食べ物が変わるのです。
   私が朝起きて一番気になるのは、その日の天気と温度。日本は春夏秋冬のある長細い島国で、四季折々の野菜果物が食卓をにぎわす幸せの国ともいえます。

   しかし、悪い例では昨年の10月台風以後の野菜の暴騰、今年の長い冷夏……。産地でせっかく一生懸命生産したスイカ・ブドウ・ナシなどは値が安くても、お客様は買う気を起こさない。生産者には気の毒に思います。

  順調な四季の天候は、天に拝むしかないと私は考えます。一定の価格ですぐ口に入る加工食品が氾濫している現在、毎日相場が違う野菜や果物を食べながら、甘いとか不味いとか言って食卓を囲めることは、幸せだと思います。
 この道、早20年の経験をもつ私も、「今日も一日、お客様にほめていただけるように」と素人気分で仕入れをするのです。



お客様の行列ができる繁盛店その店頭に立つ店主・横畑さん

私の仕事

 美味しい味を
 作るために

大島 陽二 
大田区田園調布「レピドール」専務 38歳

 私の仕事は洋菓子を作ること。皆様においしく、きれいな、そして夢のある品物をお作りして喜んでいただける、幸せな仕事です。

 自分が食べてうまい!≠ニいえるものを追求する。そして出来上がった物を、お客様が おいしい″と言ってくださる時、この嬉しさ、楽しさを何と表現すればいいのでしょう。このひと言を聞きたいために、毎日の仕事に励んでいるような気がします。

  そのためには、自分の舌を訓練し、常に試食して味を確かめます。

 それと、洋菓子は時間が経てば味も変わりますから、いつも作ってから一定の品を売ること、お客様が持ち帰って食べる時に一番良い状態になっていることが、バラツキのない菓子を作る秘訣だと思います。
 心をこめて作るとは、その製品の特性を十分理解し、一つ一つ丁寧に作ることでしょう。
 私たちの作業の基本的なものに4等割という配合があります。これは砂糖、粉、卵、バターの量が同じ割合のものを言うのです。
 砂糖と卵を泡立てるとスポンジケーキになり、砂糖とバターをすり合わせればバターケーキ、砂糖と粉を混ぜ、卵、バターを入れるとマドレーヌになります。  
 こうした各々のケーキの特徴をつかんでおかないと、とんでもないものが出来上がります。
 それと作る環境、売る環境も大切です。自然に囲まれた静かな所に居なくては、やはり良いものは作れないのではと思います。
 ここ田園調布は日本一すばらしい所です。そんな所で洋菓子作りができる幸せをしみじみと感じています。



田園調布西口の店と言えば「レピドール」。その味と店のムードを演出する大島さん




私の仕事

 親しみのもてる
 神社に
山本 五郎
 中原区上丸子山王町 丸子山王日枝神社宮司


  早いもので、私がここの神職として神明に御奉仕するようになってから、27年経ちました。
  日々の御奉仕はもとより、一年の間には、さまざな御神事があり、今更ながらに、その責任の重大さを痛感しております。

  皆様方よくご存じの元旦祭は、除夜の鐘と同時に斉行され、あかあかと燃えるかがり火に浮き出された境内では、参拝の方々に御神酒を差し上げ、共に新春を寿(ことほ)ぎます。
  翌2日からは初拝み≠ニいって、御神札を拝受された氏子の家で、家内安全、無病息災を祈願いたします。

その他にびしゃ祭り″や2月の節分祭りなど新春の御神事が続き、ついで夏祭り――。勇壮な神輿渡御には、浅草や神田、深川方面からもかつぎに来る方がおられ、神人和楽の姿を、ここに見ることができます。

  社会というのは杜(やしろ)に会う″という意味とのこと。かつては事あるごとに鎮守様に集まり、神様立ち合いのもとに、村の約束事を決めたり、酒を汲み交わすなど、本当に村人のためのお宮さんとして大きな役割を果たしていたと思われます。

  日枝神社も、そのように敬畏の中にも親しみやすい鎮守様として皆様ともども栄えていくよう努力していきたいと考えております。

 今朝もまた、神前に町内(まちうち)の安全と弥栄(いやさか)を祈願し、一日が始まりました。




  丸子山王日枝神社の山本五郎宮司

 同神社は1171年、平安時代後期の承安元年に滋賀県大津にある日枝大社から分霊を移し鎮座された由緒ある社



 ふれあいの
 始まり


有馬 新子
 港北区高田町  主婦


 通りがかりの、一面識もない飲食店に入った時、注文した料理に作った人の温かさを感じたりすると、決してオーバーでなく得をしたような気分になる。またいつか来ようと思って店の名を覚え、場所を頭の中に刻み込んでおく。

 残念なことに、昨今、そんな店にはめったにめぐり合わない……と思う。それは、日常の買物に利用するさまざまな店にもあてはまるような気がするのだが、どうだろうか。

結婚当初に住んでいた家の近くに小さな魚屋さんがあった。
 夫も私も、どちらかといえば魚好き。店頭で刺身にすればおいしそうな魚を見つけたりすると、予定していた献立がコロッと変わってしまうほうである。

 そんな具合だから、その魚屋さんには何度となく行った。小さな店で品数こそ少なかったが、ご主人の心くばりが感じられる鮮度の高いものが並んでいた。


  やがて、話好きでさっぱりした奥さんからは、魚料理のいくつかを伝授してもらえるようになり、私達の好みをのみ込んでくれたご主人は、旬のものをいち早く仕入れてきて、そのことをわざわざ自転車を走らせて知らせにきてくれた。
 確かに値段は多少高くはあった。だが金額では計れないご主人の商いに対する心意気みたいなものを感じて、私も店へすっ飛んで行ったのである。


                           ◇◆◇

 
最近のこの物価高では、主婦達の足が自然と品数が多く、安さが売物のスーパーマーケットへ向いてしまうのは当然だと思う。しかし、必要な品物を選んでカゴの中に放り込める自由と引き替えに、対話のない淋しさを感じている人もきっといるはず――。
 それでなくとも隣り近所の交際は薄くなり、他人との会話のないままに一日が過ぎてしまったという話を耳にすると、何だかやり切れなくなってくる。

                   ◇◆◇


 
「いらっしゃい!」と言ってくれる言葉の中に、店の主人や奥さんの人柄の良さを感じたり、吟味して仕入れた品物を自信持ってすすめられたりすると、別に宣伝料をもらわなくても、「あそこのお店いいわよ、一度行ってごらんなさいよ」とだれかれなくふれ歩いてみたくなる。
 その上に今一つ、私達が手に取った品物に、どんな小さなことでもいい、アドバイスしてもらえたら‥…。

  そんな風にして対話が拡がり、人と人とのふれ合いが始まり、それがいつか住んでいる街への愛着につながっていきそうな気がするのである。




 東横ダンスホールの思い出
   石川 輝
港北区大曽根 ボクシング評論家 


昭和初期、東横ダンスホールで石川輝さん

当時慶応大学生だった石川さんは、慶応に初めて拳闘部(のちボクシング部)を創設したことで知られる



  本誌第2号の「わが母校・慶応大学今昔物語」の中で、OBの大沢太郎氏が東横ダンスホールにもよく通った…≠ニ記されていたように、このホールは塾生諸君が青春を発散させた、思い出の恋とロマンの場であった。

  このホールがいつ出来たかは知らないが、私が学生だった頃、すなわち昭和の初期、すでにあったことは間違いない。

  その頃ダンスホールは、東京市内から離れた田舎に次々に建てられ、埼玉県蕨の「シャンクレール」、川口の「キング」、そしてこの「東横ダンスホール」などが有名だったのを覚えている。

  当時の若者たちは、その頃料金も安かったタクシーや電車に乗って、これらのホールへ通ったものである。

  そんなある日、私は岡本不二君と二人で東横へダンスをしに行くため新丸子駅に降りた。岡本君は昭和3年、第9回アムステルダム・オリンピックに日本としては初参加したボクシングの選手で、後に不二拳闘クラブを設立し、名ボクサー「ピストン堀口」を育てた人である。

  さて二人は改札口を出た。本誌2号に掲載されている写真のとおり、畑の中にポツンとあった小さな駅だった。
  ダンスホールも、線路に沿った道を約15分ほど歩いた所、これまた畑の真ん中にあった。

   ちょうどその時、前方からホール帰りらしい7、8人の若者グループがやってきた。見るからにモダンボーイ、すなわち不良少年である。道は一本で狭い。どちらかが譲らなければ通れない。先方は多数。こちらは二人。どちらも脇へ寄らずに、睨み合った。
  「やい、邪魔だ、どかねえか」と、まず先手に出たのは先方である。
  「どかなかったら、どうする」と、喧嘩っ早い岡本。
  「なにをッ、やるかッ!」と、不良たち。
   たちまち乱闘は始まったが、終わるまでは、ものの2、3分である。

   何しろ岡本はオリンピックへ行くほどの名ボクサー。私も慶大で初めてボクシング部を作り、大正14年の第1回全国学生拳闘選手権大会から4回連続フェザー級チャンピオン。不良たちがどんなに喧嘩に強くても勝敗は明らか。相手を全員ノック・アウト。

  今から思えば恥ずかしい限りだが、若き日のひとコマを、羽田猛氏提供の懐かしい写真(注・本誌第2号9ページに掲載)は、思い出させてくれたのである。

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