編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.423 2014.12.19  掲載 

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  わが町、奥沢

    作家・帯 正子(世田谷区奥沢1丁目


  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和56年5月1日発行本誌No.5 号名「橘
   


     
歴史の古さは田園調布の比でない奥沢


 
  ある時、私の家に訪ねて来た婦人記者が言った。
  「奥沢って不思議な町ですね。私、田園調布で乗りかえを待つのがめんどくさかったので、
 ここまで歩いて来てしまったんですけど、だんだん奥沢に近づくと雰囲気が変わってきて…きっと田園調布の奥座敷みたいな所なんですね、ここは。緑が深くって、なんとなく落着いた古めかしい感じで…」
 「あんまり個性がないのよね、この町は」と私は笑ったが、
 「でも、何だか奥床しい感じがしますわ」
 その若い女性は真面目な顔つきで言った。

私は田園調布に育ち、そしてこの町に来てからもすでに二十数年になる。どちらの町も見慣れすぎているためか、婦人記者のようにくっきりとした境目など感じることはない。
 いつの間にか古い家が取り除かれ、シャレた家やマンションに変わっているのは、東京近郊のどこの町も同じだろう。


 「でもね、地名の古さから言ったら、田園調布なんて比ではないのよ。400年もの昔、戦国時代すでにこのあたりに奥沢城というのがあってね。鷺草にまつわる美しい伝説も残されているわ。」




   友だちは奥沢城主・大平出羽守の末裔


 
私は気に入ったその話をはじめた。
 じつは最近、その奥沢城主・大平出羽守の末裔の「お姫さま」と私は友だちになり、彼女からこの土地の古い話など聞いたのだ。

  幹子さんというその女(ひと)は、ほっそりとした小柄で、今もその時代の服装がよく似合いそうな、お雛さまのような顔立ちの大人しい女性である。彼女の家には「明(あ)けずの宝」というものがあって、先祖代々、開けば不幸が起こると言い伝えられた、その頃の古文書類が沢山残されている。

  現代ならともかく、戦前までの、家柄を重んじる時代にも、城主であった証拠の品々を隠し通さねばならなかったのには、理由があった。北条、吉良が亡びた時、その一門であった大平家も「敗残の将」となったのである。豊臣にも徳川にもそれを悟られまいと、一族はひっそりと農民としてこの土地に生き続けたのだ。

 第2次世界大戦後、学者や郷土史研究家たちに請われて、やっと幹子さんの父君の手で「明けず」の扉が開かれたのだという。その文献などをもとにして書かれた、鈴木堅次郎高著の「世田谷城、名残常盤記」という本を彼女から見せてもらい、私は自分の住む土地の歴史や伝説を知ることができた。奥沢という古い町を語るには、その神秘的な話が一番ふさわしいような気がする。



     常盤姫の化身のような鷺草


 
――世田谷城主・吉良頼康が、鷹狩りの折、「奥沢の深田」あたりで一羽の白鷺を捕えた。鷺の足には女文字の美しい和歌をしたためた短冊が結ばれている。その歌の主に心ひかれた頼康は、家臣に命じてその女を探させると、奥沢城主・大平出羽守の息女、常盤姫であることがわかった。

 さっそく常盤は頼康の側室に迎えられたが、その縁結びの使いになって果てた白鷺の哀れさが彼女の胸を去らない。
 ある日、実家帰りの途上、白鷺の落ちたあたりを訪れてみると、一面に可憐な白い花が咲いている。それはまるで、短冊を足に結ばれて舞い上がる白鷺の姿そのままに見える花なのだ。(“鷺草”と名付けられたその草は、今も奥沢近辺に見かけることがあるという。)

 しかし、頼康の寵愛を一身に受けた常盤自身も、その白鷺のように色白の女性であった。彼女は頼康の他の側室たちの妬みをかい、家臣と密通したとの讒言(ざんげん)にあう。

 怒り狂った頼康は常盤を殺害しようとするが、彼女は城をのがれて奥沢城に向かう。その途中、追手に囲まれて自害するのだが、彼女の胎内には、あきらかに頼康の子とわかる8カ月の胎児がいた。追手の家臣も哀れがり、二つの塚をつくって母子を手厚く葬ったというが、その時常盤はまだ
19歳であったと記されている。

  おそらくその塚の上にも、白鷺が舞いおりたように、まっ白な鷺草が覆ったであろう。
 「鷺草」の伝説はまだほかにもあるようだが、常盤となよやかな鷺草を結びつけるのが、いかにも私には自然に思われるのだ。

 私の話に聞き入っていた、現代っ子の若い婦人記者は、
 「その幹子さんて方、先祖からの土地で、先祖の伝説に包まれて生きていられるって、ロマンチックでいいですね……」
 と歌うように言った。
 私はその時ふっと、以前幹子さんが言った重い言葉を思い出していた。

  ――私たちは先祖からの流れの中で生きているんです。私自身もその大きな流れの一部分だと思っています……。
 私は奥沢の美しさを、彼女の中に見たような気がした。



イラストマップ:島田浩子(奥沢4丁目)
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