編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
NO.419 2014.12.17 掲載 

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戦争
百日草の詩(11)
進路のこと(V)
 

  戦後本土に来た少年期

        
文:栗原茂夫
(港北区高田西 。著作「ドキュメント 少年の戦争体験」) 


    浦賀の街に星条旗が…


  昭和21年1月18日が暮れようとしていた。凍ったような黒い雲が浦賀港に低くたれこめていた。

  土となった父と2人の弟を遠い南の島、サイパン島に残したにまま、LSTで運ばれてきた母子3人は艦上から浦賀の街に目を凝らした。

  驚いた。暗い空を背景に星条旗がはためいているではないか……? 
 急に腰から力が抜けた。敗戦国の母子としていまここにあることに初めて気づいたのだった。「日本はカミの国であり戦争に負けたことがない」と教えられてきた日本が戦争に敗れた事実をいまは納得するしかなかった。

 経験したことのない寒さがいっそう身にしみた。











常夏の島サイパンから真冬の本土へ…

    将来の希望は大日本海軍

  ススペの民間捕虜収容所で抑留生活の身であったわたしたちは、日本の敗戦を知らずにいた。国民学校2年生まで正規の皇民化教育を受けたわたしは、すでにピカピカの軍国少年だった。
  刷り込まれた「兵隊さんは偉いということ」「日本はカミの国であること」「戦争に負けたことがないこと」を疑ったことはなく、抑留中もその信念がいささかも揺らぐことはなかった。

  将来は大日本帝国軍人になるつもりだった。海軍が希望だった。橋本兵曹長のような海軍式敬礼が得意でよく真似た。
  戦時の男子は、ほとんど皆兵隊になるつもりでいた。


  
  久しぶりの教科書は墨塗り本

  身を寄せることになった叔父の家から旭村国民学校に通った。2月上旬3学年に編入学したのだった。久方ぶりに教科書を手にし、興奮を覚えた。
 だが、ページを開いてびっくり……墨塗り本だったのである。軍国主義的・国家主義的教材は全て抹消されていた。

  子どもたちは底抜けに明るく、教室では自分の意見を述べる声でにぎやかだった。


  
  仮綴じ本の内容に感動

   4年生に進級したばかりで大磯国民学校に転校することになった。母が大磯で働くことになったからだ。

   昭和21年4月から新聞紙を流用した分冊形式の仮綴じ本が使用された。
   国語教科書にアンデルセンの「みにくいアヒルの子」が掲載された。知らない国の知らない作家の作品は新鮮だった。感動した。日本が世界に窓を開く国になったのだった。



男女共学の5年5組の担任は、若い女性・北村先生

     民主教育のスタート

  昭和22年4月1日、大磯国民学校は大磯小学校と改称された。「皇国の道に則り……国民の基礎的錬成を為す」教育目標は「自由な民主的国民を育成することを目的」とする教育目標に改まった。
 男女共学となり教室の雰囲気は大きく変わった。

  わたしは5年5組、担任は女学校を卒業したばかりの北村先生だった。



 新しい憲法……戦争放棄

  同年5月3日日本国憲法が発布された。
  
第9条は戦禍を体験した栗原母子を喜ばせた。戦争をしない国、軍隊を持たない国になったのだ。

  
軍人を希望していたことなど想念にのぼることもなくなった。


     
新しい教科書

 新しい教科書が配られた。第6期国定国語教科書である。(現行のような教科書会社発行検定教科書は昭和24年からである。)敗戦直後で、紙質は悪く挿絵も少なかった。

  外見は粗末でも、内容はすばらしかった。


忘れられない教材……百田宗治の詩

70年近くなるのに記憶に残っている教材がある。百田宗治の詩「じゃがいもをつくりに」である。

     じゃがいもつくりに   百田宗治

 
じゃがいもをみると ぼくは 北海道のいなかを思い出す
 みわたすかぎりのじゃがいも畑のうねの向こうに
 いつもぽっかりとういていた蝦夷(えぞ)富士


  あの山のすがたが 小さいころのことを
 いろいろ思い出させる
 ぼくが津軽海峡をこえて内地にきたのは
 ぼくの2年生のときだった
 津軽海峡の海の水が こいみどり色にゆれて
 ぼくは 船のかんぱんに おかあさんとふたりで立っていた

 北海道の家には うしが4頭いた
 みんなちちうしで ぼくによくなれていた
 こむぎこで おいしい やわらかいパンもやいた
 おかあさんがパンをやくそばで
 ぼくは いつも本を読んでいた
 ぼくのいすは 小さなゆりいすで
 その下に いつもかいねこのメリーがいた
 アカシアの花が風にゆれ
 畑では いちごがでさかりだった

おとうさん
   ぼくは 大きくなったら またおかあさんといっしょに北海道へいきます
  北海道へいって じゃがいもをつくります
   それから えんばくをつくります
   ぼくは おとうさんと同じように ちちうしをかって
   自分でバターをつくります
   やぎもかいます
   やぎ小屋のまわりには おかあさんのおすきなライラックを植えましょう
   おとうさんに 負けないように働きます

   日本のこくぐらは 北海道だといいます
   さっぽろに農学校をつくられたクラーク先生もおっしゃった
   「青年よ 大きな望みをもて」
    ぼくは 大きくなったら どうしても北海道へいこうと思う
    北海道へじゃがいもをつくりにいこう
  おかあさんをおつれして
    デンマルクの農業のことを勉強して
    ぼくは、いい農夫になろう



わたしも農夫の姿を夢見た

    わたしも「いい農夫になろう」

  戦死だろうか、父を亡くした少年が「大きくなったら北海道でジャガイモをつくろう。」「いい農夫になろう。」と将来の夢を語った詩である。

 一読して感動を覚えた。自分の境遇にも重なる「ぼく」に共感し、自分も将来「いい農夫になろう」と思ったのだった。


         父の教え……草取り

  9歳で戦禍にあうまでの間に、わたしは父から農業の基礎をある程度学んでいた。
 畑の草取りは楽しかった。根を残さないためには鎌の角度がポイントだった。

  雑草の名前も少し覚えた。海の近くの新山の畑にはスベリヒユやコニシキソウが多かった。カヤツリグサも目立った。カヤツリグサは抜きやすく、コニシキソウは扱いにくい草だった。


              父の教え……カレータ

  サトウキビの刈り取りなどではカレータ(牛車)が活躍した。
 あるとき父の許しを得てひとりでカレータの手綱を握ったことがあった。無事に軽便鉄道の集積所に向かう道を行くことができた。が、その後がいけなかった。
 車を止めて牛をネムの木に繋いだつもりだった。いっときネムの並木で木登りを楽しんだあと牛を連れだそうと見ると牛の姿が消えていた。
  ロープ扱いの未熟が原因だった。その日のうちに父が探し出してくれた。
  叱責はなかった。経験を積んだことを多としたのだと思う。

 中学生になると草取りでわずかながら収入を得るようになった。父から学んだことが役立った。


             進路に悩む

 義務教育を終わる時期が近づくと真剣に進路のことを考えるようになった。
 百田宗治の詩が影響したのか「ぼくは、いい農夫になろう。」と思うことが多かった。
 寸土の耕作地ももたないことが問題だった。


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