編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.418 2014.12.16  掲載

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 数々の先駆者、河上鈴子さん

  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和55年9月30日発行本誌No.2 号名「秋」

   取材・文:小川泰子
(主婦・菊名)  写真:川田英明(日吉)
   


   踊りの醍醐味 捨てきれず

  

  冷夏の8月。九品仏のお寺からほど近い奥沢の住宅街。小雨降る静けさをやぶって、どこからともなくカスタネットの音が聞こえてくる。やはり河上さんのお宅だった。
  玄関先に.「見物厳禁」の木札。昔ながらの障子戸をあけると、薄暗いひろ〜い板の間、そこの片隅の椅子に先生がポツーンと。

 「いま、お稽古していたのよ。こんな格好で…」。こう言いながら水着姿に肩からタオルを掛け、盛んに恐縮される。

この人が、77歳の河上鈴子さん。
 
 私のオバアちゃんに相当するお歳である。そんな方がカスタネットの伴奏に合わせて、あれほど動きの激しいスペイン舞踊を……。

 スポーツが大の苦手の私には、まったくの脅威、お化け≠ンたい。

河上鈴子(すずこ)さん 

現代舞踊家。
1,902(明治35)東京生まれ、77歳。
日本のスペイン舞踊の草分け。いまも現役として舞台で活躍、現代舞踊協会会長など多忙な日々を送る。
世田谷区奥沢8丁目在住。


  

    自動車免許も、脚に保険も、マニュキアも、前髪のカールも…、日本の先駆者


  東京生まれの河上さんは4歳で上海に渡る。その時、バレエを習いはじめ、最初はオーストラリア人、つぎにロシア人、どちらも世界で一流の先生についた。同時にピアノとバイオリンもお稽古。当時の彼女は「本当はピアニストになりたかったの」だったが、それを断念したのは「この手″の大きさで世界を舞台にするには小さすぎる」。

 そんな彼女が自分で気がついたときには、すでにスペイン舞踊家の道を歩いていた。それも16歳の頃、「上海にきたスペイン人が踊りを教えてくれた」から。
 ある時、彼女が舞台でサロメ″を踊った。ところが、それが大当り――。ついに、アメリカの超一流の劇場でスターとして迎えられることとなった。当時、大学出の月給が
100ドル、彼女は破格のギャラ週給350ドル。しかもそれが、2年8カ月もつづいた。

 日本には男性ダンサーがいない。そこで、ソロで踊れるスペイン舞踊に本格的に取り組もう、と帰国した。かつて、彼女は「天才少女」と騒がれたそうだが、そのことに触れ、「天才なんていませんよ。結局、努力の積み重ねしかないんです」とキッパリ。

 聞けば、50年前に日本で初めて脚に保険を掛けた人もこの人。またマニキュアを塗ったのも、自動車免許を取ったのも、前髪をカールしたのも、どれも最初の人だった。なぜ彼女ばかりが、そうも先駆者に、
 「南米で闘牛を見たの。その時、私の目の前で闘牛士が牛に殺されちゃったのよ。あの場面には、私はびっくり。闘牛って、命がけなんですねえ」。
 以来、踊りはもちろん、すべてのことに命がけ″でやってきたら、「あのように日本で最初の女性に」なっていたという。



        踊りは、あと10年…


脇目もふらず、モダンバレエひと筋に歩む河上さん、若い頃は親戚からも「河原乞食」と罵られてきた。それでも踊りが捨てられず、ついに愛する夫とも離婚した。

 「だってそうでしょう。踊りは私にとって、何十年も積み重ねてきた無形の財産≠ナすもの。いくらお金を積んでも買えませんものねえ」。

 いまでもー人暮らし。その孤独感は、
「淋しいと思ったことないの。だって好きなことをして生きてきたし、これからも、やりたいことがいっぱいあるんですもの。 時間があれば、乗馬、水泳、ゴルフ……したいことだらけ。でも、あと10年は踊りだけの生活でしょうねえ。私って、本当に幸せ者です」
 と、当年77歳の女性は、目を輝かせ、少女のような笑みを浮かべる。



皆さん、こんな格好、できますか?


「70過ぎてから、(身長が伸びて)棚のモノが取れるようになったのよ」と河上さん


 稽古が命のように毎朝1時間半のレッスン、午後は「河上鈴子モダンダンス教室」での指導。みずから会長職にある協会のお仕事やら原稿書き……。とにかく、お忙しい人である。

 驚いたことに70代で、
「身長が伸びてねえ、いままで届かなかった棚のモノが取れるようになったのよ」。

 まいった、まいった……。

 
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