編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
NO.413 2014.12.11  掲載

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 井上正夫碑が駐車場に



  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和55年7月70日発行本誌No.1 号名「夏」

 


  地元では文化財の軽視と…

林 衛  (港北区日吉本町 画家 68歳


  先ほど青山墓地にある志賀直哉の墓から骨壷が盗まれて話題になったが、このほど日吉の名勝にもなっている「井上正夫碑」が一隅に押しやられ、その跡は自動車の駐車場に整備されて営業が行われている。

 いかに時代の移り変わりとはいえ、かつては日本芸術院会員であった偉大な功労者の碑を、このように扱うのは文化財の軽視ではないかと地元民の批判が飛び交っている。

 ともあれ、あの世へ逝ってもやすらかに眠れないという世知辛い世の中ではある。



           かつては遠足や憩いの場

 
井上正夫碑は、東横線日吉駅から中央通りを5、6分歩き、慶応普通部を左横に2、3分あがると、日吉南団地を見下す高台に建てられている。この碑は港北区の名勝図鑑にも載っていて、小、中学生らの遠足や一般観光客の場になっていた。

 井上正夫の名は死後30年経て薄れかけているが、大正から昭和前期にかけてわが国の演劇界に大きな足跡を残しており、とくに新しい演劇発展に力をいれ東京の芝に井の上演劇道場を開いたりした。

 その門下からは山村聡や劇作家の北条秀司らを出しており、また女優の水谷八重子や岡田嘉子らと舞台や映画によく共演していた。こうした演劇界への大きな功績から昭和24年に日本芸術院会員に推された。だが、翌25年保養先の湯河原で急逝。67歳であった。

 
 井上の死を悼んだ新派や新劇の関係者が発起人となり、永年住んでいた日吉の地を記念して石碑を作り、当時日本芸術院院長の高橋誠一郎の書によって
26年に建立された。

 ところが昨年暮れ、この記念碑の場所に大型クレーン車やブルドーザーが唸り、たちまちの間に石碑は、片隅の約134メートルの場所に移設されてしまった。その跡には自動車が10台ほど置ける有料駐車場に変わった。

 この石碑のある敷地は約300平方メートル足らずだが、周囲にはヒバの木が植られ、碑を囲むように4・5本の樹木があって、春には梅の花が咲き、秋には赤い柿の実がなって風情を添えたものである。また碑のあたりには御影石の腰掛けもあって清楚な憩の場所であった。



駐車場の片隅に移された記念碑


        疎開で日吉に

 

戦前から住んでいる地元の人たちの話によると、井上正夫が日吉に住むようになったのは第2次世界大戦で戦争が激しくなり、日吉に疎開してきたという。そして亡くなる昭和25年までこの地に住んでいた。

井上家には子供がなく、夫人も中風で病床にあって、井上が死ぬとまもなく他界したという。

筆者が27年暮れに日吉に越しできたときの井上家は、夫人を最後までみとったあと夫人の妹で琵琶(びわ)の帥匠の松本キンさんが、四十過ぎの女弟子さんと住んでいた。



    昭和24年12月の井上正夫

 舞台やロケがないときはこんな好々爺姿で愛犬タローといつも日吉の街を散歩していた。後方の大きな茅葺き屋根の家に住み、300坪の屋敷で花や野菜を育て、悠々自適だった

 この家は、茅ぶき屋根で芝居の舞台によく出てくる昔風の田舎家であって、演劇人らしい井上正夫好みを思わせた。家の敷地は1000平方メートルほどあって、庭先は花と野菜の畑があった。松本さんがよくこの庭先で花などの手入れをしているのを見かけたが、色白の品のよい小柄な60を超えた人だった。

  家の垣根には白樫(しろかし)が植えられていた。この白樫は井上正夫が好んだもので、しかもこの白樫で舞台で使われる拍子木(ひょうしぎ)を作らせたという。

 この井上家の道をはさんで斜め前で、筆者の隣家の庭先には井上正夫が空襲のときに退避したという防空濠があった。6畳敷ほどのもので赤土の土手を横から掘ったというもので、かなり後まで残っていた。









井上家の跡目相続については、筆者には詳しくは分らないが、伝え聞いたところによると、井上正夫の実弟で大阪で小料理店を営んでいた小坂(井上の本名は小坂勇一)という人と、井上夫人の妹の松本キンさんとで遺産争いとなり、訴訟になった結果、松本さんが適当な金(当時の30万円という)を出して家を継ぐことになった。
 その際に実弟の小坂さんは「石碑だけはそのままに置いてほしい」と言ったという。



          宅地に売られる運命か?




昭和54年暮れ、茅葺きの大きな家があった井上正夫の屋敷跡

スケッチ:斎藤正巳(港北区下田町)

 松本さんの死後、日本舞踊家の目黒区祐天寺に住んでいる松本さんの養女(夫は松竹の映画俳優であった日守新一)が継いでいた。だがこの夫婦も亡くなり、現在はその養女が継いでいるという。

 松本さんが亡くなって、井上家はしばらく借家になっていたが、43、4年ごろ売りに出され、この田舎家は取り壊され、現在のアパートと住宅が建っている。その際、石碑のあった東側の300平方メートルは垣根をして残された。

 それが今回の突然の駐車場への変身である。伝え聞くと、持ち主の婦人が、「税金や植木の手入れが大変だからこうした」と、いずれこの場所は、宅地として売られる運命であろう。だが、日吉の地元民は何か割り切れないものが残る。


  そして生前劇団員を連れてよく法要に来ていた水谷八重子が、あの世からこの現状をみて、さぞ悔しがっていることであろう。


 反響


 新派の“中興の祖”と言われ、日吉の「井上正夫演劇道場」に通った多くの演劇人、それも著名な皆さまがこの記事への感想を綴った手紙を頂戴したことに、こちらが恐縮したり、驚いたリしたことを思い出します

 鎌倉在住の劇作家・北条秀司先生からは、
「井上正夫家に縁をもつ者として誠に迂闊なことでした。名碑が一隅に、その跡に駐車場が……これは私どもにも責任がると思います。周りの者と相談します。しばらく考えてみます」。
 他にも初代・水谷八重子の令嬢で2代目・水谷八重子(水谷良重さん)、井上正夫演劇道場のマネージャー・蜂野豊夫さんら故人と親しかった演劇界の人からも丁重なお便りが。
 
 また、故人が娘のように可愛がっていた晩年の付け人・菱沼恵美子さん(川崎市幸区南加瀬在住)は、この記事を読み、居たたまれず当編集室を訪ねて見えました。地元・日吉の皆さんでは井口文華堂の主人・井口茂さん、、吉村医院の吉村忠一先生、井上正夫の頭髪を刈っていた行きつけの床屋・長谷川勝男さんらが故人の人柄やエピソードを懐かしそうに話されるのをうかがい、故人がいかに地元日吉を愛し、皆さんとの人間関係を大切にされていたかが偲ばれたしだいです。


 ★井上正夫については当ボード「とうよこ沿線物語」の日吉編にも載せました。ご覧ください。

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