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井上の死を悼んだ新派や新劇の関係者が発起人となり、永年住んでいた日吉の地を記念して石碑を作り、当時日本芸術院院長の高橋誠一郎の書によって26年に建立された。 ところが昨年暮れ、この記念碑の場所に大型クレーン車やブルドーザーが唸り、たちまちの間に石碑は、片隅の約13、4メートルの場所に移設されてしまった。その跡には自動車が10台ほど置ける有料駐車場に変わった。 この石碑のある敷地は約300平方メートル足らずだが、周囲にはヒバの木が植られ、碑を囲むように4・5本の樹木があって、春には梅の花が咲き、秋には赤い柿の実がなって風情を添えたものである。また碑のあたりには御影石の腰掛けもあって清楚な憩の場所であった。
戦前から住んでいる地元の人たちの話によると、井上正夫が日吉に住むようになったのは第2次世界大戦で戦争が激しくなり、日吉に疎開してきたという。そして亡くなる昭和25年までこの地に住んでいた。
井上家には子供がなく、夫人も中風で病床にあって、井上が死ぬとまもなく他界したという。
筆者が27年暮れに日吉に越しできたときの井上家は、夫人を最後までみとったあと夫人の妹で琵琶(びわ)の帥匠の松本キンさんが、四十過ぎの女弟子さんと住んでいた。
井上家の跡目相続については、筆者には詳しくは分らないが、伝え聞いたところによると、井上正夫の実弟で大阪で小料理店を営んでいた小坂(井上の本名は小坂勇一)という人と、井上夫人の妹の松本キンさんとで遺産争いとなり、訴訟になった結果、松本さんが適当な金(当時の30万円という)を出して家を継ぐことになった。 その際に実弟の小坂さんは「石碑だけはそのままに置いてほしい」と言ったという。