編集支援:阿部匡宏
編集:岩田忠利       NO.126 2014.7.25 掲載  

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歴史
 日吉ゆかりのご両人

   日吉
                                                 

 沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”


 
掲載記事:&昭和57年1月1日発行NO.14&昭和58年3月1日発行NO.15 
 執筆:前川正男
(都立大・郷土史家)  絵:斎藤善貴(尾山台) 


    
悲運の横綱「武蔵山」の生涯


 日吉駅西口は、道路が放射状に走っている。駅前広場は本誌8号の表紙に登場、読者にはなじみ深いが、現実にはとても狭く、ごみごみとしていて、いかにも学生の街らしい。東口は綱島街道をまたいで、慶応大学の大きな正門があり、広々としている。
 西口は裏口という感じで神田と共通した学生の匂いがする。左手の「普通部通り」の先にある赤門坂を下ってゆくと、右手に天台宗清林山金蔵寺がある。

 その本堂の正面右手に、当地出身の第33代横綱武蔵山遺愛の松″がある。横綱が四国巡業から持ち帰った4本の松のうちの1本であるという。黒御影石の碑面には「武蔵山武遺愛の松」と刻んであった。


金蔵寺本堂右手に「武蔵山 武 遺愛の松」

           牛より強い怪力


 武蔵山は本名を横山武といい、明治4312月5日にこの寺の隣の農家と米屋を営む家に生まれ、元気なら現在73歳。神奈川県が生んだただ一人の横綱である。本家のご当主、横山治夫さんは、こう話す。
 「一言でいえば悲運の横綱≠ニいうことですかねえ
と、子どもの頃からの話を縁側でしてくださった。
  「むかしは、長男は家の後継ぎということで、兵隊にとられなかった。筋骨たくましい力の強い子でした。
 父の手伝いで子牛を引いて近所の菰(こも)を買い集めている時のことでした。積荷が重くて、仔牛がどうしても赤門坂を登れなかったんですね。すると、武は荷車を牛からはずして、それを自分で引張り上げてしまったんです。

 それからは、武の怪力が日吉村の評判になったんです。また、青年団では多摩川の河原に土俵を作って相撲大会をやっていたが、武はいつも優勝し、賞金をかせぎ、家計の足しにしていたという話ですよ。その怪力ぶりを知った当時の中原町長(川崎市中原区)の安藤さんは武を出羽海部屋に世話したんですね」
 

 大正14年、16歳で入門。初土俵は翌年1月でシコ名を玉川″と呼んだ。しかし幕内に入ったとき、名力士の常陸山や栃木山にならって武蔵山″と改名した。武蔵の国一の山になるように……という願望がこめられていた。

 以来前頭を累進し、5年5か月で小結、7年1か月で昭和7年大関へ昇進。これは関脇を飛び越して2階級特進というスピード出世だった。ついに昭和10年、26歳の若きで第33代横網に栄進した。



中央に横綱武蔵山、右に露払い笠置山、左に太刀持ちの大邱


              重なる悲運




  優勝は昭和6年5月場所1回だけ。これも悲運のなせる業。なぜかといえば、かれが横綱になったときは、昭和13年に盲腸炎で急逝した無敵の横綱玉錦、ライバル横綱常ノ花がおり、つづいて天才、双葉山が横綱となり超人的な連勝記録をつくる。その間に挟まったかれは、将棋の升田名人と同じように悪い時期に横綱になったものだった。

 さらに悲運は重なる。大関で油ののりきったとき、昭和7年1月に春秋園事件が突発する。1月5日に人気力士武蔵山を新大関とする春場所新番付が発表された翌6日の牛後、出羽一門の西方幕内力士19名全部と十両11名ほか2名、計32名が品川大井町の中華料理店春秋園にたてこもって、相撲協会改革をとなえ、十か条の要求書を協会に提出した。指導者は、天竜″であった。結局、力士団は、相撲協会を脱退し、「大日本新興力士団」を結成した。
 この頃、新開に「武蔵山拳闘界入りか?」という記事が出て、かれは両方にニラまれて苦境に立った。
 さらに26日、東方の鏡岩、朝潮 (後の男女の川)ら9力士と十両8名が協会を脱退、協会残留は玉錦、能代潟の両大関以下11名となってしまった。
 このむずかしい時期に、武蔵山はひとりで協会帰参をしてしまう。協会はこれに力を得て、十両幕下から急拠8名を特進きせて幕内に入れた。以後、武蔵山は「新興力士団」からは、裏切者と恨まれることになる。
 さらに不幸なことには、致命的な事故がかれを襲った。昭和
14年のこと、新鋭の前頭・沖ツ潟との好取組みの際中、「ポキン」という異常な音。それは土俵下にいた親方(常陸山)の耳にもはっきり聞こえたほど。だが、度重なる巡業でゆっくり治療するいとまもなく、右腕の後遺症に悩んだ。結局、このケガが命取りとなり、横綱・武蔵山は引退せざるを得なかった。

                        不遇だった引退後



  また不運は追い討ちをかける。戦局の重大化である。昭和18年夏場所には、警戒警報が発令され、19年2月には国技館が軍に接収され、風船爆弾製造工場となった。そのため夏場所を後楽園球場で開くようになり、地方巡業も中止。力士は勤労奉仕に出たりしているが、応召もつぎつぎときた。20年3月10日夜、東京下町大空襲で国技館もその周辺の相撲部屋も被災。8月に終戦となったが、大食漢の力士たちは食べるものもなく、国民も食うに追われて相撲どころではない。12月にはその国技館も占領軍に接収されてしまうのである。

 武蔵山は、日吉に帰って畑を耕し糊口をしのいでいた。25年蔵前国技館ができる頃には、ようやく相撲の人気が復活してきたが、武蔵山は骨折の利き腕が全治せず、親方として後進に稽古をつけることもできない。

 ついに協会を離れ、いろいろな商売を手掛けた。まず神田で金物屋、つぎに新橋でレストラン、渋谷で不動産屋など、どの商売でも寄ってくるのは元横網″の名前を利用しようとする者ばかり。
 やることなすこと裏目に出て、全くの失意のうちに突然、心筋硬塞で他界したのだった。ときに
44年の3月、59歳の春だった。大きな重い棺は近所の人たちに交代でかつがれて、金蔵寺に葬られた。
 3女幸子さんに父親像をたずねると、「意志が強く、曲がったことと人に媚びることが大嫌いみたいでした。間違ったことをすると、座らせてコンコンと諭す父でした」。
  寡黙な武蔵山は、とかく暗いイメージがぬぐえなかったが、その点、高子夫人は「昔の横綱教育は『威厳を保て。やたら外で笑顔を見せるな』だったようですからねえ」。
  
 主なき後の横山家には、標札「横山武」が往時のままだった。
 新派の名優、井上正夫の一生

日吉駅西口、放射状道路の一番左側の道普通部通り″。そこにある日吉台小学校の角を右に曲ってしばらくゆくと、右手の坂上に新派中興の祖″といわれる名優井上正夫の碑がある。

戦火がはげしくなると、井上正夫は渋谷区隠田の家を売り払い、日吉のこの農家に疎開してきたのだった。玄関に<井上正夫演劇道場>という自筆の大表札を掲げ、ここから新橋演舞場へ満員電車に乗って通っていた。幼少の頃から筆舌に尽きない辛酸をなめてきたかれも、日吉時代には円熟した人格と枯淡な芸風で新派の第一人者であった。

また日吉人としては、極めて平凡な老爺として凡々の日常を過していた。







昭和24年12月撮影。舞台やロケがないときはこんな好々爺姿で2代目愛犬タローといつも日吉の街を散歩していた。後方の大きな茅葺き屋根の家に住み、300坪の屋敷で花や野菜を育て、悠々自適だった

   波乱に富む青春


 
本名小坂勇一だったかれは、明治44年四国の愛媛県砥部(とべ)村で生まれた。ここは砥部焼の産地であったため、小学校を終えるとすぐ雑貨屋や瀬戸物屋に小僧に出された。だが、どうしても軍人になりたくて、32円を持って飛び出し東京へ出た。しかし世の風は冷たく、再び故郷に帰ったが、父が再婚しており、今度は大阪へ出た。或る日、道頓堀で新派の芝居を見て、役者になろうと思った。だが、ツテがなく果たせなかった。

 それからは、素人あんま、電報配達、紙芝居の下働きなどを転々。ようやく、博多の酒井政俊座に入り、師匠の「政」の字の「正」だけをもらって「正夫」と芸名を決めた。
 広島の興業のとき、芸者Fを見染めたが、上の役者にとられて失恋。「よーし、いまに見ろ!」と発奮、再び東京へ出る。

 明治38年、23歳で伊井客峰一座に入り、やがて「女夫(めおと)波」の秀夫の役で認められる。
 明治43年「新時代劇協会」を起こし、有楽座でバーナード・ショウの「馬泥棒」をやったが不入り、第2回目にはゴーゴリの「検察官」をやったがこれも不入り、結局、新派の舞台に戻った。

 しかし、かれはなんとしても新派の体質に不満だった。そこで日本で最初の野外劇をやったり、浅草へ進出して連鎖劇(芝居の間に映画を入れる劇)をやったり、映画に出演したり、懐悩の道を努力一筋に歩んだ。


 生涯、四国ナマリが直らなかったかれは、それがまた独特の持ち味となって人気があった。酒は飲まなかったが、うどんが大好きだった。「うどん会」というファンの会ができ、その会員の一女性と結婚した。ときに24歳。



   常に真実を求めて苦悩

 
松竹の社長・大谷竹次郎に非常にかわいがられ、「新派第二軍」という一座をつくってもらったこともあった。それでも芸に悩み続けるかれは、アメリカへ視察に行って帰るや、国活(国際活映)で少女時代の水谷八重子と共演。
 その後、舞台や松竹キネマに出演したりしたが、昭和2年「平将門」は世の絶賛を博したが、興行的には記録的な不入りになった。

 かれの演劇は、新派の左、新劇の右、「中間演劇」ともいわれた。新協劇団の稽古場には「井上正夫演劇道場」という看板を掲げ、昭和11年頃から、三好十郎、村山知義、八木隆一郎、北条秀司らの脚本を演じ、作家山本有三は「米百俵」を井上のために書き下したりした。

 順風満帆とみえたかれの道場も、岡田嘉子が杉本良吉とソ連へ脱出したり、山村聴が「文化座」をつくって離脱したり、最も愛した天才俳優の夭折があったりで挫折。

 晩年、新派に帰って5年ほどは、あらゆる雑念を払って悠々と舞台をこなし、その老熟した芸風は大きな人気を呼んだのだった。



昭和25年1月、最後の舞台。初代・水谷八重子と共演した「恋文」

   六十年、化けそこねたる男かな

「よい芝居は、よい脚本から」というのがかれの信条だった。前記の新進脚本家八木、北条などを起用する一方、あの頃軍ににらまれて困っていた村山知義を勇敢に採用して助けた。

 金銭にはじつに淡泊な人で「役者がカネに執着するときは、芸の止まりだ」とロぐせのように言っていた。また、犬の大好きなことでも有名。舞台に本物の自分の愛犬を3回も出演きせたり、明治座では「犬の家」という芝居を上演したこともあった。実際、自宅の門柱には愛犬の銅像をのせて置いたほど。さらに俳画と書は、玄人はだしだった。
  昭和25年2月、静養先の湯河原で急逝した時は69歳、芸術院会員であった。

 六十年、化けそこねたる男かな
 
 が辞世の句である。


「よい芝居は、よい脚本から」というのがかれの信条だった。前記の新進脚本家八木、北条などを起用する一方、あの頃軍ににらまれて困っていた村山知義を勇敢に採用して助けた。

 金銭にはじつに淡泊な人で「役者がカネに執着するときは、芸の止まりだ」とロぐせのように言っていた。また、犬の大好きなことでも有名。舞台に本物の自分の愛犬を3回も出演きせたり、明治座では「犬の家」という芝居を上演したこともあった。実際、自宅の門柱には愛犬の銅像をのせて置いたほど。さらに俳画と書は、玄人はだしだった。

 南無三宝 七十歳に早やとなり

 と刻まれている。


御師井上正夫急逝の翌年昭和26年10月29日、門下生が思い出の「井上正夫演劇道場」に集い、門下生・伊藤嘉朔さん設計の建碑除幕式を行い、故人の思い出話に花を咲かせたのだった。

前列に小堀誠、鈴木光枝、寺島信子、。後列に市川翠扇、松本克平、蜂野豊夫、佐々木隆、竹内京子、山田巳之助ら懐かしい面々

 

  
晩年日吉の思い出

   ゆきつけの床屋さんの話

 
空襲が激しくなると、井上正夫は日吉に疎開、茅葺き屋根の田舎家風の家に住んだ。敷地は10000平米もあり、庭に花と野菜を植え、取れた野菜を知り合いの作家や劇団員に配ったりしていた。空襲があると、横穴式の6畳ほどの防空壕に入った。この頃は、夫人と四国から来ていたお手伝いさんと住んでいた。

 カツラをかぶるかれは、常に髪の長さを一定にしておく必要から床屋へはよく通った。そのゆきつけは駅のそばの「長谷川理髪店」であった。現店主の長谷川勝男さんは当時の井上正夫の思い出を話される。
 「うちのオヤジは、根っからの職人気質の人でした。井上先生はそこがお気に入りで、しょっちゅう見えました。入口の扉を少し開けて「やって貰えるかネ」とおっしゃる。オヤジが「きょうは気分が悪いからダメだね」というと、「そいじゃ……」 と黙って帰られるんですね。

 湯河原で亡くなられる一週間前でした。「ちょっと旅に出るんでやってもらいたいんだが・・・」と現れましてね。まだ髪も短いようだったのでオヤジは襟元だけをやっていました。
 先生は野球が大好きでしたねえ。お宅のすぐお隣りが慶応大学野球部のグラウンドだったせいでしょうか。野球のジャンパーのそでを切ってチャンチャンコのようにして着ていました。多摩川で取れた鮎をお届けすると、すぐその場で鮎の絵を描いて色紙をくださる。農家の人がナスやキュウリをお持ちすると、その絵を描いてくださる優しい先生でした。

 ある時、地下タビ姿で店に見えたので、どうなさったんですかとうかがうと、「私は不器用だから、こういう格好で楽屋入りしないと、スッと舞台に乗れないのですよ」といっておられました。


   付け人だった菱沼恵美子さんの話

 
菱沼恵美子さん(旧姓小島。箕輪町生まれ)は日吉堂薬局の相沢さんの紹介で学校を出るとすぐ井上正夫の付け人となった人。亡くなるまでの4年余を行動をともにした。いま、川崎市幸区南加瀬に住むこの人を突然お訪ねする。
 「先生とは新橋演舞場へよく通いました。電車がすごく混んで大変でしたねえ。ですから、急がない時は、渋谷からコトコト都電でゆきました。東横線のストの時は、南武線で武蔵小杉まできて、日吉まで先生と歩いたこともありました。なにしろ食糧事情の悪い時代で、先生は湯河原の向島園にゆくと活きのいいお魚が食べられると喜んでいました。

 あの日、私もあとから湯河原に。私を養女にするというお話に、大阪のご親戚からOKがきたというので大変なご機嫌でした。大阪へ足を延ばそうかなど言って喜んでおられました。ところが翌朝、あんなことになってしまって……。
 御遺体を白いシーツに包み、マネージャーの蜂野豊夫さんとお弟子の山田巳之助さん、それと私の3人で並んで抱いて木炭自動車で日吉に向かいました。ところが寒い2月のこと、御遺体が氷のように冷たくて、震えてしまいました。途中、突然のこと、クルマのうしろの木炭装置が燃えはじめたのです。びっくりしましたねえ。運転手さんが近所の家でバケツに水をもらい、消し止めましたが、3人は先生の遺体が膝の上にあり身動きもできないのです。「先生とご一緒に火葬になるのでは……」 とまっ青になりました。

 「大船撮影所の帰りが遅くなる時は、もし間違いがあったらご両親に申訳ないといって、先生が日吉の私の家の途中まで送ってくださいました。ご自分が疲れて大儀な時は、女の私をワラジなどをはかせた農夫に変装してくれて「これなら、だれが見たって女には見えないよ」といって自慢顔なのです。

 そんな先生は私に「役者とは絶対に結婚しない方がいいよ」と常々いわれました。その頃、岡田嘉子さんや鈴木光枝さんら昔のお弟子さんは、「昔の先生はコワかったのよ〜。いまの先生はウソみたい」とよくいわれたのが印象的ですね。



 本誌「とうよこ沿線」創刊号で「井上正夫碑が駐車場に」と題し2ページの誌面に掲載

 
この碑は港北区の名勝図鑑にも載っていて、小中学生の遠足や一般観光客の場。周囲にはヒバの木が植えられ、碑を囲むように4,5本の樹木があり、春は梅の花、秋は赤い実の柿が生って風情を添え、碑の周囲に御影石の腰掛がある市民憩いの場所だった。ところが、本誌掲載の半年前、大型クレーンやブルドーザーで整地、有料駐車となり、石碑は片隅に移設された。

 この記事に「文化財の軽視」と、こちらが驚くほどの反響の電話や文書が寄せられた。なかでも私が大事にしている手紙が初代水谷八重子さんの令嬢・2代目の水谷八重子さんと劇作家・北条秀司さん、マネジャーだった蜂野豊夫さんからの礼状です。岩田忠利

「最後の湯河原行きのときでした。夕方、私の家にきて、垣根から顔だけ出した先生が「ヤアー」といわれたので、母はオバケかと思ったそうです。髪がやけに白く見えたのだそうですね。
 先生はシェパード犬のフミちゃんを舞台に出したりして、とてもかわいがりました。フミちゃん亡きあとは、雑犬のタローをいつも散歩に連れて行き、孫のようにしていたのです。

 先生の死後、タローは動物のカンで知ったのでしょうか、まったく元気がなくなってしまったのです。見かねた私がタロ一に「先生は死んでしまったのよ」というと、タローの目に白く光る涙がこぼれるのを見ました。それから1週間、タローは行方不明になってしまったのです。

 日吉の碑は、伊藤嘉朔(きさく)先生が設計した立派なもの。それがいま、当時の屋敷の面影もなく、駐車場の片隅に追いやられてしまって、先生に申し訳ないような気がしてなりません。

 この麗人は、師井上正夫のアルバムを前に淋しそうに目を伏せるのだった。





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