「錦が丘」の桜を一層引き立たせてくれるものに、緑と空間がある。この辺りの家の敷地はかなり広く、庭には緑が豊富である。
桜は、その緑の中で艶やかさを増す。坂道を下れば桜の向うに丘が見え、上れば花の向うは青空である。
花木は、花が咲いてはじめて、その存在を人々に気づかせる。つまり緑の葉におおわれてしまうと、木の存在すら忘れてしまうことが多い。しかし、この「錦が丘」の桜は、夏の炎天にもその価値を発揮する。それは、この木の作り出す豊かな緑陰の故……。
桜の名所の公園や寺社は数多いが、「錦が丘】は純然たる住宅地。ちょっと取り澄ました生活感のない町のような気もするが、人々は、桜の下を歩き、立ち止まり、話を交わす。来年の開花を心の中で待ちながら……。
反響
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創刊当時の「とうよこ沿線」編集室には、40人ほどの余暇を活用して編集をしてみたいという沿線住民が参加していました。なかでも多い層が主婦でした。
雑誌づくりに主婦が参加して沿線誌「とうよこ沿線」を創刊したと、テレビ朝日が15分のテレビ番組「サテライト」でタイトル<主婦がつくる沿線雑誌>を放送しました。昭和55年10月6日午後6時からの番組。
テレビ画面はまず、ヘリコプターで東横沿線地域を空撮したシーン、続いて地上の閑静な「錦が丘」住宅地を写しながら、この伊藤寛子さんの投稿「錦が丘の桜」のくだりをアナウンサーの朗読で始まり、広告募集活動・編集会議の模様などへと続くのでした。
放送後、編集室の電話は鳴りっぱなし。「その雑誌はどこで売っているのですか」「私も主婦、参加したいのですが…」「定期購読するには?」「春、花見に行きたいのですが、どのように行けば?」などさまざま。
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父のボランティア活動
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浅野桂子(港北区篠原北 学生 21歳)
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私の父は8年程前から町内会の仕事をしています。現在は、町内会の新聞を年4回発行、これは6年前から始めたもので、2500世帯に配布されています。
なぜやり始めたかと父に聞くと、町内会の総会で、具体的に町内会がしている仕事を知らないために、的がはずれた質問などが出てしまい、これではいけないと、父が中心になって新聞を作ることになったそうです。
この新聞には、町内会の各種行事の予告や報告(盆踊り、清掃など)、居住している周辺の情報、会員の投稿などを載せています。その結果、町民も町内会の動きがわかるようになり、変な質問は出なくなったそうです。
新聞の原稿を印刷所に持って行く前は、朝晩電話も多く、母も私も妹もこんな父の姿を、こういうことが好きなんだなあと、半ばあきれ顔で見ていました。
しかし、どうやら私にも、父の「物好き」な血が流れているようです。
父の「新聞」は、横浜市広報センター発行のニコニコ・ニュース「ふれあい」にも載り、父の新聞継続に対する情熱は、ますます強固なものになってきました。
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これが父の新聞です
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ひと言
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投稿者の浅野桂子さんは、この原稿を編集室に持参し、そのまま編集スタッフになりました。文中に「父の“物好き”の血が流れているようで…」とありますが、それは父の血どころか、お父さんは桂子ちゃんの血が“逆流”して新聞づくりに情熱を燃やしているのではありませんか。
21歳の若さで桂子ちゃんの好奇心と行動力は凄い。私はたくさんの編集スタッフと接していますが、それは人並みではないのです。
どんな有名人でも決して臆することがない人。あの国民的アイドル・長嶋茂雄さん宅に電話で取材依頼して「忙しいから…」と断れると「では、奥様に…」と切り替え、亜希子夫人のコメントを取材したり、歌謡界の大御所・藤山一郎さんには原稿返信用の切手を同封しなかったとT時間も電話で叱られながらも、最後にはちゃんと原稿を頂戴するなど、並みの人間には対応できない根性と応用力を持ち合わせている桂子ちゃん。その後、どうしていますか?
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血友病と同居して
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村山政昭(川崎市中原区 保険外交員 22歳) |
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私は22年間秘かに闘ってきた自分の持病のことを原稿にし、広く世間に発表するつもりはなかった。
むしろ、それを強く拒んできた。ところが最近、縁あって本誌編集長・岩田さんと知り合い、私の病気のことを書くように、うま〜く丸め込まれてしまった。罪な人である。
私の持病は、「血友病」というとっても厄介な病気です。ガン≠ニ同じくらい恐ろしい病気。10年ほど前は、統計では8歳までに80〜90%が亡くなっていました。
血友病の中にも種類があってA型、B型、C型など、いろいろ。とくに、私の場合は、A型の重症患者――。
そんな私が、いまこうして22歳まで生きている事実は、医師の話では異例≠セそうです。
それはきっと、両親の愛情と医師の適切な処置、その結果にほかならない。また、私の生命力と精神力もそれにプラスしているかも知れない。
私はいままで、死の恐れ≠ニ同居して生きてきました。「明日の生命か、それとも1週間後か…」と。病状が悪化、危険になればなるほど、私は生きることに貪欲になりました。
それでも血友病という宿命に負け、死に追いやられそうな時が、何度かありました。血友病との闘いに敗れ、生きる道を閉ざされた私は、絶望感で自殺さえ考えたことも……。それは、16歳のときでした。
それに打ち克った、いまの私は血友病というハンディが、自分の歩む道にただ単にころがっている一個の石コロ≠ノすぎない、そう思えるようになりました。
そして今、切実に願うことは、「自分は一日も長く生きていたい! 生きられた日を大切にして……」。
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ひと言
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まじめで礼儀正しい村山くん、そんな君のことだから家庭や会社のほうはうまくいっていることでしょう。その後、持病はいかがですか?
第一生命の保険料を払い込むたびに君の病気のことが気になっていました。君に勧められた保険が満期になって満期金をいただきました。お陰さまでそれで印刷会社に「とうよこ沿線」の滞っていた印刷代金を払うことができました。ありがとう! たまには日吉の編集室に寄ってね。
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漫画「のらくら狂室」
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吉村忠一(港北区日吉本町 医師) |
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◇就職運動 第1志望は郵政省かKDDに決めた
大学卒業見込み生
◇総会宣言 シルバーシートは健康人に譲ります
老人会
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