東京の渋谷の道玄坂は、渋谷区の中心的な繁華街になっているが、昔、むかしは、木がうっそうとしげり、昼なお暗く、夜ともなるとひとっこ一人通らぬところだったそうな。
『江戸名所図会』には「道玄あるいは道元に作る。里諺に云、大和田氏道玄は和田義盛が一族なり、建暦3年(1213)5月、和田一族滅亡す。其残党此所の窟中に隠れ住て山賊を業とす。故に道玄坂といふなり……」
と、記されている。
とにかく怖いところだったようだ。そして「のっペらぼう」の怪談が語り伝えられている。
むかし、雨のそぼ降る夜、ひとりの男が道玄坂をのぼってくると、向うから提灯が一つゆらゆらとこちらへむかってくるのだった。
<こんな夜に誰だべ。山賊は、提灯なぞつけてくるはずがねえ>と、男は、木の陰に隠れて通り過ぎるのを待っていると、なんと、提灯は、男のいる木の前で止まって、
「わたしの顔をみてください」
と、提灯を顔のところへ持っていった。
キヤーッ!
男は、気を失って腰をぬかしてしまった。
まっ白い女の顔は、目も鼻も口もないのっペらぼうで、細い首をくる−り、くるり−とまわしてみせたのだ。そして、暗がりに消えた。
しばらくして我に返った男は、息せききって坂を下り夜なきそば屋の屋台にとびこんだ。
「お、おやじ、い、いっぺえくれ」
冷や酒をいっきにのむと、もういっペえくれといった。
「何かあったのですか。顔色も悪いし、ふるえていなさるじゃないかね」
そば屋のおやじは、うつむきながら酒をついでつぶやいた。
「こ、これが怖がらずにいられるかい」と、男は、道玄坂ですれちがった白い女のことを話した。
「そうかね。そんな女が道玄坂にいましたかね。その女は、こんな顔ではなかったかね」
と、そば屋のおやじは、ろうそく台の近くに顔を寄せた。
ヒ、ヒェ−ッ!
男は、持っていた盃を落とした。
そば屋のおやじの顔は、目も鼻も口もないのっペらぼうだった。
男は、息せききってとんで帰り、うちにとびこむと、水をガップガップとのんでいた。
「誰だと思ったらおまえさんじゃないの。また、飲んできたんだね。ろくに稼ぎもないのに飲んだくれて……。あれだけ酒をやめると約束したのに。それでも江戸っ子かね」 暗い土間に女房がつっ立ってぼやいた。
「こ、これが飲まずにいられるか。おら、道玄坂と坂下の夜なきそば屋でお化けか幽霊にあってきたんだ。怖いのなんの……」
おやじは、のっペらぼうの話をした。
「そうですか。そんな人が二人もいましたか。その顔は、こんな顔だったでしょう」
女房は、ニ−ッと笑って顔を行燈のそばに近づけた。
「ヒェ−ッ。お、おまえもか!」
おやじは、女房ののっペらぼうを見てひっくりかえってしまった。
それから、道玄坂には、死ぬまで行かなかつたと。道玄坂のむかし、むかしだよ。
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イラスト:石原辰也(学生 反町)
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昭和26年、一面の焼け野から復興してきた渋谷駅前と道玄坂
車も通行人も少なく、街並みは平屋や2階建てが多い。右上の道玄坂のY字路の分岐点が現在の109
提供:菅野今朝吉さん(渋谷1丁目)
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