編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏/ロゴ:配野美矢子
                 NO.359 2014.11.06  掲載 
樹木


 民話作家 萩坂 昇(日本民話の会会員。川崎市中原区中丸子)

  茶屋坂は目黒区三田二丁目と中目黒二丁目との坂、茶屋坂随道の上から東へ下り、田道小学校前へ行く坂をいう。『新編武蔵風土記稿』には、「味噌下は渋谷村の方へ寄てあり、御遊猟御立場の辺なり。此所に茶店あり、土俗爺が茶屋″と呼び世に聞こえたる茶店なり」
と記している。

 「爺が茶屋」は、高台の眺めのよいところにあり広重の絵にもなっている。そして落語の「秋刀魚は目黒」の原話になった「田楽(でんがく)は目黒」が語られていた。

 むかし、安永6年(1773年)10月9日という。徳川10代将軍家治が目黒へ鷹狩りにきて茶屋に寄った。

 そのとき、茶屋のじいさまは、田楽をつくっていて、香ばしい匂いがただよっていた。
 将軍は、じいのところへ寄ってたずねた。
 「じい。それはなんと申すものじゃ」
 「はい、田楽と申します。昔、鷺足をはいた田楽法師さまが田の神に豊年万作を奉納するために田楽舞をしている姿に似せて豆腐を串にさしたものでこざいます」

 「なるほど、そういわれれば田楽法師が舞っている姿じゃ。して、味はどうじゃな」
 将軍は一串を口にすると、また、一串を食べて顔をほころばせ、これはうまい、これはうまいといいつづけたと。

 そして、日ならずして家来を大勢つれて再びやってきて田楽を食べたいといった。
 「じい、きょうは供の者、全員に田楽を食べさせよ」といって、銀一枚をさしだした。

 茶屋のじいさまは、百串、2百串を将軍の前で焼きたて、あたりには、よい香りがただよっていた。
 家来もこれはうまい、これはうまいと食べて帰っていった。それから将軍は、「田楽は目黒だ」というようになり、将軍が茶屋の親父に「じい、じい」といったことから「爺が茶屋」の名がついたという。

 その田楽がどこでどうなったのか秋刀魚(さんま)となった。

  むかし、ある秋、赤井御門守という殿様が、遠乗りで馬にまたがって家来と目黒へやってきて、木の下で休んていると、どこからともなく香ばしいかおりがしてきた。

 「よい匂いじゃ、何を焼いているのか確かめて参れ」

 家来は、しばらくして戻ってきた。
 「はっ、恐れながら秋刀魚でございます」
  「なに? サンマとな? それはなんじゃ」
 「魚(うお)でございますが、殿の口には、あわないと心得ます」 



秋恒例の「目黒のさんま祭り」
目黒駅前商店街で




イラスト:石野英夫(元住吉)



 「だまれっ! 秋刀魚をこれに持て、目通りを許すぞ」

 家来は、大きな皿にいっぱいの秋刀魚と大根おろしを添えて持ってきた。将軍は、
 「うむ、美味である、美味である」
と、一人で全部食べてしまった。

 「余は、かようなものを食したのは初めてじゃ、これより屋敷へもどり、三度三度秋刀魚を食すぞ」

 屋敷には、秋刀魚はおいていないから魚河岸へ使いを出して買ってきたが、この強い油は殿様の体に悪いと、蒸して油をぬいたバサバサした、そして、小骨がのどにささっては大変と骨をぬいたくしゃくしゃのものを「恐れながら」と、出した。

 殿は食べたがうまくない。で、どこから求めたかをきくと、魚河岸と答えた。

 「ならん、秋刀魚は目黒じゃ」と、いったそうな。はい、おそまつさま。

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