編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子
NO.330 2014.10.29  掲載 

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 「第8回誌上座談会」
      
<わが東横沿線を語る>
   
  出席者:東横沿線7区の代表8名
  会場:「とうよこ沿線」編集室
 


      思い出の“沿線人”
         

   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和62年7月20日発行本誌No.39 創刊7周年記念号 号名「槿
(むくげ)」

   文:岩田忠利
(本誌編集長)    
   

出席者の顔ぶれ(各区代表)

藤田佳世さん 渋谷区代表。渋谷区桜丘在住。鶴見区に生まれ、3歳から渋谷育ち、。最近まで陶器店・お好み焼店の経営者。著書『大正・渋谷道玄坂』ほか2冊。76
前川正男さん

目黒区代表。目黒区八雲在住。代官山に生まれ。陸軍中尉を経て中島飛行機へ。戦後日本IBM設立に参画。本誌連載「とうよこ沿線物語」執筆。71

小林英男さん 中原区代表。中原区小杉御殿町在住。旧中原町助役、元川崎市議、昭和59年度川崎文化賞、本年藍綬褒章受章。73年間書き続ける記録歴は日本一。85
鈴木 宗さん

世田谷区代表。世田谷区奥沢在住の奥沢っ子。戦時中は近衛連隊兵役。戦後は信用金庫に20年勤務。区文化財指導員。奥沢の縄文展等を主催。68

山口知明さん
大田区代表。大田区田園調布在住。東京生まれ、北海道で新聞記者を経て、昭和9年から社団法人の町会「田園調布会」に勤め、現在同会副会長。87
池谷光朗さん 港北区代表。港北区綱島東在住。武蔵工大卒。終戦直後の農地解放から500年の旧家を守るため農業に従事。現在はゴルフ練習場経営。61
照本 力さん

神奈川区代表。神奈川区東神奈川在住。東京外語大に進学後、終戦で中退。昭和23年から神奈川熊野神社ほか11社の宮司を務める。59

山室まささん

港北区・神奈川区代表。港北区新羽町在住。宿場町神奈川に生まれ、女学校出のタイピストの草分け。戦災後現在地に移り、今は明治生命現役。75

司会岩田忠利 「東横沿線を語る会」代表。本誌編集長 



      会社に賭けた人、五島慶太さん


司会 皆さんは今までの半生で夥しい数の人にお会いしたことでしょう。なかでも心に残る人、影響をうけた人などいらっしゃいましたら、その人のエピソードをご披露願えませんか。
小林 東急の創設者・五島慶太さん。世間では強盗慶太″なんて悪口言いますけど、あれは資産家であるというホメる意味が半分、日本橋の白木屋を乗取った時の強引さを悪く言う意味が半分だと思う。

 私はある意味で慶太さんを尊敬しておりますよ。非常に宗教に熱心な方で本も書いて出しているのですね。

中原町が川崎市に合併するまで私は中原町の助役をしてましてね、丸子橋新設や多摩川愛桜会の件などで東横本社(現東急)には何回か交渉に行ったことも…。

 或るとき、東調布町の天明町長とその町の松村某という豪傑と私、3人で、五島慶太社長に会いに東横本社へ行ったんです。が、松浦支配人という方が「いま、社長は会えない」との返事。

 すると豪傑の松村が玄関の出口で「せっかくいい話を持ってきたのに、社長、会わねえのかよー」と捨てゼリフを吐いたんです。それを聞き止めた守衛さんが社長に連絡したらしい。帰る私たちのあとを守衛が息せき切って追いかけてきて「いま社長は都合がつき、お会いするそうです」と。あのひと言が利いて、私たちは社長に会えたのです。

 五島慶太さんという人は、東急、当時は東横電鉄会社のことでいつも頭がいっぱいなんですね。
 少しでも会社の利害に関することならば万障繰り合わせて人に会うという行動力の持ち主でした。


東京横浜電鉄且ミ長時代の五島慶太さん



道玄坂で猿股を売っていた林芙美子


司会 藤田さんが書いた本を拝読しますと、「林芙美子さんが道玄坂でサルマタを売っていた」という一節が…。

藤田 たしか私が8歳の頃、道玄坂の夜店が一番盛んだったんです。林芙美子の出世作『放浪記』を読むと、その中に道玄坂の夜店でお母さんと2人、古本を売った日のことを書いています。

 文
中の彼女の出店は万年筆屋の隣、と書いてありますが、私の記憶には倒産した万年筆屋の商品を哀れっぽく売っていた男がいたのです。そしてその隣に戸板を裏返してサルマタを売っていた女の人が確かにいたんです。

 だからそれが林芙美子さんとその時わかればもっとじっと見たかも知れませんけど…。8歳くらいですが、その印象は強いんです。



小説家・林芙美子(明治36〜昭和26年)


 庭でヌード、歌人・与謝野晶子



司会 そうでしたか。それと与謝野鉄幹・与謝野晶子についても、藤田さんが思い出を書いていらっしゃる。


歌人・与謝野晶子
明治11年(1878)〜昭和17年(1928)享年50歳
藤田 思い出じゃなくて、与謝野夫妻が住んでいた家を私のお友達のおばあさんが貸していたんです。それで、あの晶子さんが髪を振り乱して旦那の鉄幹と大喧嘩をよくしていたと言うんですね。
 行水なんかするときも、女性が素っ裸なんか見せたら大変な時代なのに、晶子ははばかりもなく行水をしていた。「変わった人だねぇ」と友達の祖母は言っていたという。

 与謝野夫妻は私の家の近くで3
度引っ越していますが、どの家も知っています。渋谷駅から昼夜の区別なく戦地に送られる兵士を目のあたりに見、その心情を「君死に給ふことなかれ」と詠んだ場所、与謝野さんの書いた文章がそのまま私の見た風景なんですね。






    心の温かい人、大岡昇平



司会 作家の大岡昇平さんも渋谷の出身でしたね。大岡さんが自伝風に渋谷を書いた作品『少年』を本誌「とうよこ沿線」の第9号で取り上げたことがあります。そのとき私は、担当の内野瑠美さんと成城の大岡邸にうかがったことがあるんです。インタビューが目的でしたが、まさか会ってはくれまいと電話もかけず突然に飛び込みで…。ところが、ノーベル賞候補にもなったご本人がお茶をもてなして心よく会ってくださった。温かい人だなあ、と感動いたしましたよ。
藤田 大岡先生は私より2歳ぐらい年上。ですから先生のご本『少年』や『幼年』をお書きになるときも、間違いのない作品を書きたいって、何回かお会いして昔の渋谷の様子を私の知っている限りお答えしたことがあるんですよ。

 先生は、私の子供たちと同じ大向小学校のご出身で、最初の家が稲荷橋、それから東急百貨店本店の東側、私の店「こけし」があった近くでした。

 大岡先生は、私の2冊目と3冊日の本に序文を書いてくださった。その御礼に何をどうしたらいいかって迷いましてね、野菜を10何種類か煮て、青磁の丸皿に盆栽のように盛り合わせ、それを持って成城のお宅へ伺ったわけですね。これに小さなのし袋に1万円札l枚を包んで…。

 と、奥様に「見てご覧、とってもきれいだ」と、とても喜んでくださったのです。2日ほど経つと、先生から現金封筒が届いたのね。何かと思ったら、ピンとした
1万円札が半紙にくるまり、直筆の手紙が…。

 「あれが町方の風習か、と何気なく戴いたが、あれはいかにも大金…。あなたには『少年』を書くときお世話になったので御礼をしたいとかねがね思っていた。今回自分が書いてあげられて良かったと思っている。にもかかわらずあれは……」。

  先生にとって今どき、1万円なんか大金じゃないんですけれどね、4っつに折った私の万札をしまって、真新しい札を半紙にくるんで送ってくださるその心に、私も「こうしなきゃあいけないもんだなあ」って教えられました。先生は、謙虚な人でご立派な方だなあ、と思っております。



作家・大岡昇平を渋谷の街を案内する藤田佳世さん



   田園調布育ての親、渋沢秀雄さんとは…


司会 山口さんは、なにしろ各界の名士が住む町、田園調布の主みたいな方、いろんな人との思い出がおありでしょう。なかでも田園調布の町づくりの功労者・渋沢秀雄さんとは親しかったのですね。

山口 あの方は、数年前亡くなってますが、父親に渋沢栄一という明治・大正時代の日本の経済基盤をつくった大実業家を持ち、その御曹子なのに、たいへん気さくな人でしたね。

 自分でも自分を楽天家で牛″みたいな人間だと言っていましたよ。昔のことを何度も繰り返し書いては、それで食べているんだから、って…(※ 氏は随筆家としても有名)。

 また多才でしたね。絵も油絵を描いては展覧会をやる。すると渋沢さんの信者みたいな人がたくさん見にきて、みんな売れちゃうんですね。その売上をあの画伯は、方方(ほうぼう)に寄付しちゃうんですよ。福祉事務所とか町会とかに…。
 俳句もおやりになる。田園調布の家は渋亭≠ニいう茶室にして、徳川夢声・宮田重雄・藤原義江など有名文化人を集めては句会を開いたり…。奥様の、こと子さんが小唄の師匠であったことから、長唄・小唄・清元など邦楽全般をたしなまれる。あるとき私に「わが家は夫婦共遊び、その家元だよ」。いつも奥さんとご一緒に邦楽を楽しんでいらっしゃったようですよ。

藤田 渋沢先生がおはぎが好きだとおっしゃったので、お届けしたことがあるんですよ。そのとき、小粋な奥様が現れて三味線を弾いてくださった。



  晩年91歳の渋沢秀雄
昔の写真借用に伺った折、岩田忠利撮影

  税金の二重払い
 


山口 あの方はいろんなことをよく覚えているんです。徒然草の一節を朗々と述べてみたり記憶力抜群の人。
 しかし、こと金銭については、まるっきしダメで、税金を2度払ったことも覚えていないんですから……。「あの税金、以前あなたお払いになったんでは?」とぼくが訊くと、「また催促がきたから、払ってきた」という。最初の領収書をポケットに入れたまま、忘れちゃてるんですからねえ。財産家の渋沢家のこと、多額の税金なのに…。ほんとに金銭には淡白な人でした。





 


   命と引き換えに仁王像を贈った田中さん



司会 本誌で好評だった「とうよこ沿線物語」を3年半執筆しでくださった前川さん、沿線各地を取材され、未だに書かないお話をひとつ…。
前川 池上本門寺の98段の石段を登り切ると、大きな木彫りの“仁王像”が立っていますね。実はあれは池上の大地主・田中という人が寄贈したんです。

 田中氏が上海事変へ出征するとき、池上本門寺の御守りを胸のポケットに入れ、大事にしていたんですね。いざ敵前上陸。そのとき敵の銃弾が矢継ぎ早に。笛のような音を立てた流弾が一発、田中兵士の胸に当たった! 瞬間、「パチッ」という音……。
 帰ってから胸のあたりを調べると、あの御守りが袋の中で割れていたのです。

 御守りのおかげで無事命が助かって帰国した田中さんは、御礼にと本門寺に寄贈したのが、数千万円を要した芸術品、仁王像なんです。

 この作者もモデルもともに東横沿線の有名人であることがまた、嬉しい。現代を代表する彫刻界の重鎖・円鍔勝三さん、この人はまた武蔵小杉に住んでおられますね。筋肉隆々の男性モデルは、代官山に住むプロレスの、あのアントニオ猪木なんです。


池上本門寺の仁王像
彫刻家・円鍔勝三先生作でモデルはアントニオ猪



  沿線名物“丸子の花火”仕掛人、大竹幾次郎


小林 円鍔さんは、うちのすぐ近くに住んでるよ。そうでしたか。

 前号の「アルバム拝借」にも載っていた丸子の花火″、あれを自分の故郷から花火師を招いて初めて開催した大竹幾次郎という人物も、沿線史上欠かせないと思うよ。
 戦時中に一時中断はあったものの、大正
14年から昭和42年まで沿線最大の名物行事として毎年夏、数十万人の人の目を多摩川岸で楽しませてくれたんだからねえ。


大正14年から始まった丸子の花火、昭和42年最後の花火  
 丸子橋の下で  
提供:小野基一さん(新丸子町)
 大竹幾次郎という人は、粒々辛苦して京橋の「アイスキャンデー三河屋」の社長となり、新丸子に従業員の福利施設をつくり、のちにこれを“料亭丸子園”としたんですね。百畳敷の宴会場、ヘチマ風呂、芸者20数名と大正14年完成以来、この規模でも沿線最大の“大人の遊び場”でしたね。

 同氏の息子、2代目の静忠氏は、とても変わった生活だったそうですね。本妻が家庭を守る主婦、2号が料亭を守る女将(おかみ)。
  噂によると一つ部屋に本人がまん中、本妻が右、2号が左と川≠フ字に布団を敷いて寝ていたんだそうだ。
 それも奥さんは早寝早起きで家族の食事の用意、2号さんは店をしまって帰るので“遅寝遅起き”っていうのか、めったに2人は顔を合わせない。
 うまい具合に調整ができている。これが、ほんとの時差出勤″というのか、“時間差攻撃”というのか……
(笑い)




  タケノコを普及させた山路治郎兵衛勝孝


司会 奥沢の鈴木さん、どんな方がいちばん心に残っていますか。

鈴木 目黒と世田谷はタケノコの産地として有名でしたね。タケノコは孟宗竹の子、これは250年前、徳川時代の吉宗のとき沖縄から鹿児島へ、それから江戸へ。それがどうして江戸へ?

 隅田川河口の霊岸島で幕府の廻漕御用をつとめる4代目・山路治郎兵衛勝孝は、果樹や野菜栽培に熱心で、品川領戸越村でさかんに作っていた。当時、芝の薩摩藩の上屋敷に出入りしていたものですから、そこで珍しい孟宗竹をみかけて興味をもち、さっそく薩摩(鹿児島)から植木鉢で取り寄せ、自宅の庭に植えてみたんですね。
 と、1年や2年でどんどん成長、「これじゃ、一人では持ちこたえられない」と近所の農家に“根っこ”を分けてあげたんですね。これが戸越〜中延〜大岡山を経て碑文谷、そして世田谷へと広まったわけですよ。


 勝孝は最初「この美味しいタケノコをどのようにして江戸の庶民に食べさせようか」と思案、桐の箱にタケノコを詰めて神田の青果問屋・紀伊国屋の店頭で並べたんですね。これが江戸中の評判に…。
 当時お不動様詣″が盛んでしてねえ、目黒不動の門前の食堂や料亭でタケノコ料理として初めて参拝客に食べさせてみた。これまた「目黒不動に行けばタケノコご飯が…」と知れ渡ったんです。今度は農民が「あの門前に並べて売れば売れるだろう」。縄で束ねたタケノコ3本が、土産物として飛ぶように売れたのですね。

 これが今日、落語や講談に目黒のタケノコ″として残り、目黒だけがタケノコ産地として有名になったというわけ。世田谷の奥沢あたりでもタケノコ栽培は、終戦直後まで盛んでしたよ。

 目黒区内の小学校では、タケノコの産地だったということでこれをデザインして“校章”にしている学校もあるとか。
 山路治郎兵衛勝孝という人物も、沿線の産業振興功労者だと思いますよ。




中目黒小学校の校章



菅刈小学校の校章
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