編集:岩田忠利/編集支援:阿部匡宏
投稿:益田 勲(横浜市神奈川区神之木町)     NO.331 2014.10.30  掲載 

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樹木 駅名の由来@ 

 
今に残る江戸時代遺跡、大丸用水(T)



 
はじめに


 
  今も残る江戸時代の用水遺跡


  大丸用水は、いくつもの支流が存在しますが、殆どが稲城市と川崎市にあります。
  用水と言えば、二ヶ領用水が有名ですが、この大丸用水もなかなか趣のある用水です。ここ10年来、仕事の関係で稲城市の南多摩付近に訪れることが多く、現場で目にすることあったため、興味を持ちました。

 稲城市の観光案内では、
 「大丸用水は、稲城市大丸の多摩川から取水して川崎市登戸まで流れる用水で、江戸時代以降、稲城市域の村々及び下流の村々を潤す大変重要な農業用水として維持・管理されてきました。用水の開削時期については、明確な史料はあリませんが、江戸幕府の年貢の増収を目的とした大規模な治水・利水政策の一環として、17世紀頃につくられたと考えられます。(中略)また延亨3年(1746)の古文書(川崎市・佐保田家文書)によると、元禄12(1699)以来大丸用水組合による修繕資材の負担が行われていたことが記されていますので、少なくともその成立が17世紀まで逆上ることは間違いありません。」(−江戸時代の歴史を中心として−)
  とありますので、仕事の関係でよく見かける、菅堀を辿ってみることにしました。


    取水堰 (東京都稲城市大丸)


 
二ヶ領用水の取水堰(二ヶ領用水上河原堰堤)から、約6キロほど上流に大丸用水の取水堰があります。取水口は残念ながら管理棟や鉄柵があり、立ち入りが出来なかったので、対岸からやや望遠で撮影してみました。
 コンクリートの堰板を上下させて水量を調節しているようです。対岸はバーベキュー場になっています。

 驚いたことに、水が淀んだ上流側で、サーフボードでパドリングしている人がいました。岸には連れと思われる方が待機していましたが、事故でもあったら大変ですが。

 取水口から多摩川に沿った堀は、殆どが暗渠になっていました。一部は避溢(ひえつ)水路と思しきものがあり、金網で防護された堀として残っていました。余剰の水はまた多摩川に戻されています。 

  多摩川を渡る南武線の土手のところで、隠されていた水路が現れます。水路はサントリーの工場の脇を通り、南武線南多摩駅の北側を通ります。途中の河岸段丘の擁壁に、「三沢川分水路」の銘がありました。多摩ニュ―タウン地域の雨水を、多摩川に流すためのものだと聞いています。



        取水堰
20141017日撮影:手前の土手の内側に取水口があります




            取水堰
20141019日撮影:対岸から。魚道には白鷺や鵜が集まっていました




多分、避溢水路
20141017日撮影:遊水地的な用途でしょうか




   菅堀 (東京都稲城市大丸)

菅堀は200近く存在する大丸用水のうちの、比較的長いものです。
 国土交通省関東地方整備局の資料では、
「大丸用水は、稲城市大丸の取水口から多摩川の水を取り入れて、川崎市登戸まで流れる多摩川右岸側に位置する用水で、9本の本流と約
200本の支流を合わせた総廷長は70キロbに及びます。」
 とありますので、菅堀は本流の一つだと思います。

  取水堀は今の南武線の南多摩駅の北側に位置しており、用水と谷戸川が交差するところに、江戸時代の土木の知恵である伏越によって、水路が保たれておりました。
 
 しかし、最近の南多摩駅周辺の市街化整備工事により、谷戸川とともに伏越は消滅してしまいました。




          伏越跡
20121113日撮影:手前が用水、コンクリート遺構が谷戸川伏越跡

南多摩駅の東側に、大丸用水の分量樋があります。
 1:2の割合で堀が分割され、大丸村と他の村、部落に用水が分配されていました。今もこの遺構は残っています。


 稲城市の「大丸用水−江戸時代の歴史を中心として−」では、
 「取入口は、大丸の「一の山下」
(現在の南武線多摩川鉄橋のやや上流)にありました。多摩川に長さ約100(182b)の取水堰を築き、ここでせき止められた多摩川の水は横幅2間(3.6b)の用水圦樋(いりひ)(用水を引き入れるための水門の樋)から取リ入れられました。取水された水は、まずうち堀を通って分量樋へと向かいます。分量樋は、大丸村用の用水と他村用の用水を分けるために付設された樋で、堀幅は大丸村用1に対して他村用2の割合に分けていました。ここで分水された大丸村用の用水は大堀と呼ばれ、大丸村の南部を潤したのち長沼村・矢野口村を流れ、さらに川崎方面に向かいます。」
 と記述され、当時の村民には、この水量の確保が死活問題だったのでしょう。



分量樋跡
201211月9日撮影:用水幅が12になっています

 ここから道路一本わたると、用水の上に小さな公園があり、藤棚が美しく地域の住民の方が、手入れされていると聞いたことがあります。


 更に進むと、大丸親水公園に入っていきます。そこには円形の淀みが造られています。周りは水田地帯で、折しも稲刈りの真最中でした。(続く)




          大丸親水公園
20141017日撮影:サークル内に鯉が集まっています
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