菅堀は200近く存在する大丸用水のうちの、比較的長いものです。
国土交通省関東地方整備局の資料では、
「大丸用水は、稲城市大丸の取水口から多摩川の水を取り入れて、川崎市登戸まで流れる多摩川右岸側に位置する用水で、9本の本流と約200本の支流を合わせた総廷長は70キロbに及びます。」
とありますので、菅堀は本流の一つだと思います。
取水堀は今の南武線の南多摩駅の北側に位置しており、用水と谷戸川が交差するところに、江戸時代の土木の知恵である伏越によって、水路が保たれておりました。
しかし、最近の南多摩駅周辺の市街化整備工事により、谷戸川とともに伏越は消滅してしまいました。
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伏越跡
2012年11月13日撮影:手前が用水、コンクリート遺構が谷戸川伏越跡 |
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南多摩駅の東側に、大丸用水の分量樋があります。
1:2の割合で堀が分割され、大丸村と他の村、部落に用水が分配されていました。今もこの遺構は残っています。
稲城市の「大丸用水−江戸時代の歴史を中心として−」では、
「取入口は、大丸の「一の山下」(現在の南武線多摩川鉄橋のやや上流)にありました。多摩川に長さ約100間(約182b)の取水堰を築き、ここでせき止められた多摩川の水は横幅2間(約3.6b)の用水圦樋(いりひ)(用水を引き入れるための水門の樋)から取リ入れられました。取水された水は、まずうち堀を通って分量樋へと向かいます。分量樋は、大丸村用の用水と他村用の用水を分けるために付設された樋で、堀幅は大丸村用1に対して他村用2の割合に分けていました。ここで分水された大丸村用の用水は大堀と呼ばれ、大丸村の南部を潤したのち長沼村・矢野口村を流れ、さらに川崎方面に向かいます。」
と記述され、当時の村民には、この水量の確保が死活問題だったのでしょう。
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分量樋跡
2012年11月9日撮影:用水幅が1:2になっています |
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ここから道路一本わたると、用水の上に小さな公園があり、藤棚が美しく地域の住民の方が、手入れされていると聞いたことがあります。
更に進むと、大丸親水公園に入っていきます。そこには円形の淀みが造られています。周りは水田地帯で、折しも稲刈りの真最中でした。(続く)
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大丸親水公園
2014年10月17日撮影:サークル内に鯉が集まっています |
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