はじめに
横浜は、西洋歯科医術の発祥地
横浜は西洋史化医術の発祥の地と言われています。
江戸時代の歯科医の一派に、長井兵助の流れを汲む医家がありました。
長井兵助ば江戸時代安政年間の歯科医で、長刀の抜刀術を大道で見せ、人が集まったところで、歯磨き粉を売り、歯の治療をしました。その長井家は、柘植(つげ)で作った入れ歯が得意であったことから、歯の治療に専念し歯科医師としての地歩を確立させました。
私の祖父は西洋歯科医師であり、横浜の日本大通で治療院を開きました。祖母は、この長井家から嫁いできました。和洋の歯科医術が融合したかのようです。かな?
自分は建築の技術者ですが、専門とは関係ない横浜歯学の事始めに興味を持ちました。
さて、横浜には近代歯科医術の発祥の記念碑がいくつかあります。碑の人物の来歴は、碑文だけではなく、「齒科醫事衞生史」というう書物も参照しました。1940年(昭和15年)10月25日に刊行された本で、編集は日本齒科醫師會。レトロ感を出すため、敢えて原文の文字を使いました。
本では近代日本の歯科医業に、功績のあった人物を取り上げています。歯科医師の人脈の系譜を歯科医学を三つの系に分け、「外人医師」系、「留学」系、「伝統医学」系です。祖父は「留学」系に名前が記載されていました。
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齒科醫事衞生史表紙
1940年10月25日刊:2センチ㍍ほどの厚さです |
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西洋歯科医学勉学の地の碑(旧:横浜市中区山下町 新:同区住吉町)
山下公園からほど遠くない、KAAT神奈川芸術劇場の裏手の道路の角(現在は駐車場)に、この碑がありましたが、現在は桜木町寄りの横浜歯科医師会館の前に移築されました。
碑は、米国人歯科医セント・ジョージ・エリオット博士と、ハラック・マーソン・パーキンス博士日本での功績を讃えています。両博士は、多くの日本人の門弟を抱え、近代歯科医術を教えました。
セント・ジョージ・エリオット(St.J.Eilliott D.D.S.米国 1838年 大正4年頃)
齒科醫事衞生史から少し引用してみます。「セント・ジョージ・エリオットが日本に來航したのは明治3年(1870年)である。(註 明治2年と記するものあり)。エリオットは天保9年(1837年)10月紐育に生まれ、父は眼科醫であった。初め兵士となりて南北戦爭に從軍し累進して聯隊司令官附将校となったが、負傷の為め除隊し、戦爭の終期に至り再び軍医官として陸軍に入り戦爭終焉後は独立開業した。(中略)
エリオットが横濱に來た時には、2名の外國人が齒科を開業してゐた。其一人は佛人で、他の一人は米人だった。何れも極めて低級の開業で、エリオットが開業するや數週で佛人は内地に入りて佛語教師となり、米人は歸國したといふ程で、いかにエリオットに人氣があったかが想像される。(註 此二人の外國人齒科醫の事は全く調査の史料を缺く)。(中略)
斯くしてエリオットは横濱山手に住居を構へ、又海岸の五十七番館を借受け之を改造して治療所としたのである。エリオットの住居はどこにたったかといふに、S.R.ブラウン博士の西隣であった。即ブラウン博士は山手211番でエリオットの宅は212番であった。ブラウン博士宅の南隣地は(210番)今の共立女學校の所在地に相當する。(中略)
日本人への福音を分かつといふ傳道の立前から、ドクトル・シモンズの切なる勸告から邦人の患者をも取扱ふこととなったが、エリオットの自記によれば、木戸孝允も其患者の一人なりといふ。明治事物起源(石井研堂著)によれば「エリオットが治療を施せし邦人は米國より歸朝したる翌日來りし新島襄と通辯を同行して來た西郷從道の外は絶てなかりき」と記す程に邦人患者は少なかったやうである。」(齒科醫事衞生史:原文のまま)
碑文では以下の通りです。「エリオットはアメリカ南北戦争終期に陸軍医務官として従軍した。終戦後、フィラデルフィア歯科医学校を卒業して明治3年ここ五十七番館で開業し、明治7年まで5年間診療に従事した。その後、上海、シンガポールを経て英国ロンドンの歯科学校で手術学を5年間講義した。その後故郷に帰り、ニュージャージー州サウスオレンジ市で大正4年頃逝去。」
本の方が詳しくて、語り口が時代を感じさせて面白いですね。
ハラック・マーソン・パーキンス
(H. Mason Perkins 米国 不詳)
同じく齒科醫事衞生史で見てみます。「明治7年エリオットの跡を継ぎ、横濱山手178番 裏は太神宮に續く靜かな住宅、治療所は海岸の五十七番館 パーキンスは明治14年秋に帰国したが、その後杳としてその消息を絶ち知る由が無い。」(齒科醫事衞生史:原文のまま)
何か、エリオット博士と比べると、ずいぶん記述が少ないです。消息を絶ったとは穏やかではありませんが、確かに記録が残っていないようで、碑文でも以下のようです。
「パーキンスは米国ペンシルベニア州に生まれ、ボストンの歯科学校を卒業した。37歳頃、横浜この地にエリオットの後を受けて開業し、多くの門人を指導。1881年秋帰米す。」(碑文)
松岡萬蔵
この人は日本初の西洋歯科技工士だったそうですが、レリーフには顔が刻まれていません。
碑文では以下の通りです。「明治3年より14年までエリオット、パーキンス両歯科診療所に歯科技工士として勤務し、其の技術優秀にして両先生に信頼されていたが、早逝している。吾が国における歯科技工士としての嚆矢である。」
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西洋歯科医学勉学の地の碑
2005年6月25日撮影:最初の場所のもの |
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