編集支援:阿部匡宏
投稿:益田 勲(横浜市神奈川区神之木町)  編集:岩田忠利  NO.285 2014.10.11  掲載 

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樹木  駅名の由来① 

 
    横浜歯科医師碑、探訪

 はじめに


 
横浜は、西洋歯科医術の発祥地


  横浜は西洋史化医術の発祥の地と言われています。

  江戸時代の歯科医の一派に、長井兵助の流れを汲む医家がありました。
 長井兵助ば江戸時代安政年間の歯科医で、長刀の抜刀術を大道で見せ、人が集まったところで、歯磨き粉を売り、歯の治療をしました。その長井家は、柘植(つげ)で作った入れ歯が得意であったことから、歯の治療に専念し歯科医師としての地歩を確立させました。


 私の祖父は西洋歯科医師であり、横浜の日本大通で治療院を開きました。祖母は、この長井家から嫁いできました。和洋の歯科医術が融合したかのようです。かな?
  自分は建築の技術者ですが、専門とは関係ない横浜歯学の事始めに興味を持ちました。

 
さて、横浜には近代歯科医術の発祥の記念碑がいくつかあります。碑の人物の来歴は、碑文だけではなく、「齒科醫事衞生史」というう書物も参照しました。1940年(昭和15年)1025日に刊行された本で、編集は日本齒科醫師會。レトロ感を出すため、敢えて原文の文字を使いました。

  本では近代日本の歯科医業に、功績のあった人物を取り上げています。歯科医師の人脈の系譜を歯科医学を三つの系に分け、「外人医師」系、「留学」系、「伝統医学」系です。祖父は「留学」系に名前が記載されていました。


  齒科醫事衞生史表紙

1940年10月25日刊:2センチ㍍ほどの厚さです


   西洋歯科医学勉学の地の碑(旧:横浜市中区山下町 新:同区住吉町)


 
山下公園からほど遠くない、KAAT神奈川芸術劇場の裏手の道路の角(現在は駐車場)に、この碑がありましたが、現在は桜木町寄りの横浜歯科医師会館の前に移築されました。

  碑は、米国人歯科医セント・ジョージ・エリオット博士と、ハラック・マーソン・パーキンス博士日本での功績を讃えています。両博士は、多くの日本人の門弟を抱え、近代歯科医術を教えました。

 セント・ジョージ・エリオットSt.J.Eilliott D.D.S.米国 1838年 大正4年頃)

  齒科醫事衞生史から少し引用してみます。「セント・ジョージ・エリオットが日本に來航したのは明治3年(1870年)である。(註 明治2年と記するものあり)。エリオットは天保9年(1837年)10月紐育に生まれ、父は眼科醫であった。初め兵士となりて南北戦爭に從軍し累進して聯隊司令官附将校となったが、負傷の為め除隊し、戦爭の終期に至り再び軍医官として陸軍に入り戦爭終焉後は独立開業した。(中略)

  エリオットが横濱に來た時には、2名の外國人が齒科を開業してゐた。其一人は佛人で、他の一人は米人だった。何れも極めて低級の開業で、エリオットが開業するや數週で佛人は内地に入りて佛語教師となり、米人は歸國したといふ程で、いかにエリオットに人氣があったかが想像される。(註 此二人の外國人齒科醫の事は全く調査の史料を缺く)。(中略)
  斯くしてエリオットは横濱山手に住居を構へ、又海岸の五十七番館を借受け之を改造して治療所としたのである。エリオットの住居はどこにたったかといふに、S.R.ブラウン博士の西隣であった。即ブラウン博士は山手211番でエリオットの宅は212番であった。ブラウン博士宅の南隣地は(210番)今の共立女學校の所在地に相當する。(中略)
  日本人への福音を分かつといふ傳道の立前から、ドクトル・シモンズの切なる勸告から邦人の患者をも取扱ふこととなったが、エリオットの自記によれば、木戸孝允も其患者の一人なりといふ。明治事物起源(石井研堂著)によれば「エリオットが治療を施せし邦人は米國より歸朝したる翌日來りし新島襄と通辯を同行して來た西郷從道の外は絶てなかりき」と記す程に邦人患者は少なかったやうである。」(齒科醫事衞生史:原文のまま)

  碑文では以下の通りです。「エリオットはアメリカ南北戦争終期に陸軍医務官として従軍した。終戦後、フィラデルフィア歯科医学校を卒業して明治3年ここ五十七番館で開業し、明治7年まで5年間診療に従事した。その後、上海、シンガポールを経て英国ロンドンの歯科学校で手術学を5年間講義した。その後故郷に帰り、ニュージャージー州サウスオレンジ市で大正4年頃逝去。」
 本の方が詳しくて、語り口が時代を感じさせて面白いですね。


 
ハラック・マーソン・パーキンス
H. Mason Perkins 米国 不詳)

同じく齒科醫事衞生史で見てみます。「明治7年エリオットの跡を継ぎ、横濱山手178番 裏は太神宮に續く靜かな住宅、治療所は海岸の五十七番館 パーキンスは明治14年秋に帰国したが、その後杳としてその消息を絶ち知る由が無い。」(齒科醫事衞生史:原文のまま)
  何か、エリオット博士と比べると、ずいぶん記述が少ないです。消息を絶ったとは穏やかではありませんが、確かに記録が残っていないようで、碑文でも以下のようです。

 「パーキンスは米国ペンシルベニア州に生まれ、ボストンの歯科学校を卒業した。37歳頃、横浜この地にエリオットの後を受けて開業し、多くの門人を指導。1881年秋帰米す。」(碑文)

 松岡萬蔵

  この人は日本初の西洋歯科技工士だったそうですが、レリーフには顔が刻まれていません。
 碑文では以下の通りです。「明治3年より
14年までエリオット、パーキンス両歯科診療所に歯科技工士として勤務し、其の技術優秀にして両先生に信頼されていたが、早逝している。吾が国における歯科技工士としての嚆矢である。」



西洋歯科医学勉学の地の碑

2005年‎6月‎25日撮影:最初の場所のもの


  我国西洋歯科学発祥の地の碑(旧:横浜市中区山下町 新:同区住吉町)



 
元は関帝廟の近くの駐労会館前に、建立されていました。1860年(万延元年)に歯科医師として横浜で開業していた、米国人のウィリアムス・イーストレーキ博士を讃えた碑です。現在は、西洋歯科医学勉学の地の碑と一緒に、横浜歯科医師会館の前に移築されています。
  齒科醫事衞生史では、非常にあっさりと記述されています。

  ウィリアム・クラーク・イーストレーキWilliam Clark Eastlake亜墨利加(米国)1834.03.251887.02.26

  明治14年秋 横濱居留地 百六十番館で開業、その後福沢諭吉の紹介で麹町一番町12番地に転居」(齒科醫事衞生史:原文のまま)
  衛生史の資料はそんなに整っていなかったようですが、碑文では以下の通りです。

「ここは、万延元年(1860)歯科医師として最初に来日した米国人ウイリアム・クラーク・イーストレーキ博士が、来浜3度目の明治14年に 歯科診療所を開設したゆかりの地である。博士は明治元年2度目の来浜に際し歯科診療所(所在地不明)を開設し献身的な診療活動の傍ら日本人歯科医師の育成に努力を傾注し日本近代歯科医学の世界的発展の端緒を開く役割を担われた。
  いまイーストレーキ博士の来浜125周年ならびに神奈川県歯科医師会創立60周年を迎えるにあたり博士の多大な業績を讃えその意義を後生に伝えるため西洋歯科学発祥のこの地に顕彰の碑を建設するものである。」

 碑文も縮めてみれば、衛生史とほぼ同文の内容です。イーストレーキ博士は、後世に残した影響はかなり大きなものだったと思われますが、関東大震災があり、多くの資料が失われたのでしょう。

 ほかにも、特筆すべき外国人歯科医師がいます。

  ヘンリー・ウヰン
Henly Winn)医師は、米国生まれで1850 頃に生まれ1890 年頃に没したと思われます。晩年は帰国する人が多く、また、多くはその消息が不詳です。

  その当時の外人医師はほとんど居留区の外人や、高級船員を患者としていませんでした。日本人はあまり診ていなかったのでしょう。当時の新聞のチラシに「口中一切治療仕候 百八番 ウヰン」というものが残っています。治療所は「山手に面した河岸で、前田橋と谷戸橋との中間に位する商館である。」とあるので、現在のフランス山の麓、元町の入口辺りのことだと思います。

 アレキサンドルAlexandre)医師は、波乱万丈の人です。明治5年頃、佛國から日本に砲術の教師として松江藩に来ました。軍医も兼ねていたのでしょうか。横濱で開業した後、築地・銀座に転居します。齒科醫事衞生史では、「治療所の看板に自動式の上下顎の開閉する人形に義齒の見本を竝列する看板を出し、時人之を「パクパクの看板」と云い衆人の注目を引いた。(明治事物起源より)」とあります。
  さらに、「其の後アレキサンドルは某地に行きて佛語の教師となりしといひ、或いは櫻井一齋氏に招聘せられしといふも詳らかでない。」とあります。砲術指南の先生から、歯科医師、外国語教師となり、パトロンも付きました。「明治15年3月2日本邦で歿して法名を「法海直入信士霊位」と記しておりますが、死亡地は詳らかでない。尚アレキサンドルは在邦中ハナといふ女性と同棲してゐた。」。なんだかドラマになりそうな人生を歩んでいます。

  ギュリツキTheodora W. Gulick)医師は米国人です。明治 12 年に来航して来て、横濱でわずかな期間開業後、神戸に移り開業しています。

 齒科醫事衞生史の本一冊で、結構、想像を膨らませて楽しむことができます。


   我國西洋歯科学発祥の地の碑

2005月‎9日撮影:駐労会館前の駐車場にありました




       横浜歯科医師会館の碑

2012年‎7月‎23日撮影:碑は会館の前に全て集められました



   歯塚 (横浜市鶴見区鶴見2丁目)


 
鶴見大学の校内と言うか、総持寺の境内に入る道路の入口付近に、歯塚があります。右側の小さい碑ですので、見落としてしまいそうです。鶴見大学は歯学部があり、神奈川県歯科医師会が1965(昭和40)年に歯塚を建立しました。
  歯科医療の大切さを、多くの人に知って欲しいと言うのがこの塚の趣旨で、例年、供養を歯科医師会と鶴見大学歯学部の教職員、研修医、学生で行なっています。鶴見大学は総持寺が母体ですから、供養はお手のものです。

  この碑の脇に、背丈が歯塚の倍ほどもある碑が建っています。これは、毎日新聞販売店主物故者の慰霊碑です。毎日新聞を支えてくれる販売店主が亡くなると、この慰霊碑に合祀され、追悼法要が行われています。

 


鶴見大学の歯塚

2005年‎7月‎24日撮影:総持寺の参道途中にあります
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