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編集:岩田忠利     NO.257 2014.9.30  掲載 

   西郷従道の息子と外車

     
文・ 前川正男(郷土史家。目黒区八雲


  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”


   掲載記事:昭和60年2月1日発行本誌No.26 号名「榊」

   
 


         先輩・西郷さんの外車


 
私の2年先輩の航空科(現横浜国大)に、西郷道親(従道の息子)さんがおられた。珍しい学生で、毎日外車で通学しでいた。当時「航空研究会」というのがあり、グライダーを持っていた。

 1年上に藤沢秀雄という1等飛行士の免状を持つ学生もいたので、「航空研究会」は他のクラブ活動にくらべて盛大だった。さらに西郷さんの親友に吉原謙二郎という才人(スチール家具のトップメーカー岡村製作所社長)もいて、賑やかだった。

 冬休みには、会長の近藤政市教授(元日本自動車研究所所長)を先頭に、羽田飛行場へゆき、長いゴム紐を息をきらせて引いて、グライダーを飛ばした。が、私は1年生であったので乗る順番がなかなか来ず、そのうちに下手な上級生が壊してしまい、いつも引くだけだったが楽しかった。

 夏休みには、箱根の仙石原で飛ばすことになり、みな張り切って準備をした。学校から数台のクルマを連ねて、颯爽と東海道を西下した。私は偶然西郷さんの例の外車に乗ることになった。 この外車は、天気がよかったので天井の幌を折り畳んでオープンカーとなっており、よい気分であった。西郷さんの運転する車でドライブすることになろうとは、夢にも思っていなかったから…。

 ところが、西郷さんはガソリンスタンド毎に停車して満タンにしている。当時(昭和11年)、車の知識の全くなかった私は「外車というのは、随分ガソリンを食うものだなァ」くらいに思っていた。そのうちに、うしろの車がクラクションをうるさく鳴らす。私がふり返ると、運転手が盛んに手話もどきで話しかける。しきりに私の車のお尻のあたりを指差す。私がOKサインをしたら、その車は横へ寄った。
 みると、私が乗ったクルマの通ったあとに、一条の線が延々とひかれている。何だろう? いくら考えても訳がわからない。そこで西郷さんに、「何か、この車から洩れてるみたいですけど…」とたずねると、振り向きもせず、「ガソリンです。タンクに穴があいてんです…」とすましている。そう言われてよく見ると、長い一条の線はガソリンらしい。西郷さんは、先般ご承知であったらしい。

 それからも2、3軒のガソリンスタンドで満タンにして、やっと目的地にたどり着いた。やっぱり、われわれ凡人とは大分出来が違うわい、と思った。



          仙石原のエメラルド漬け(?)


 
着いた日にテントを張り、夕食をすまして寝た。大幹部たちは近所の姥子温泉に分宿しているらしい。翌朝起きてみると、一面霧雨に煙っている。5メートル先も見えない。ひたすら天候の回復を待つことにした。山の天気は変わり易いというので、晴れれ間を待ったが、期待に反してそのままの霧の中で日が暮れてしまった。

 翌朝も雨。昨日よりもひどい。そして寒い。そこで、今日もだめらしいので、旅館へ行くことにした。温泉はエメラルド色で、すこしぬるい。体の芯から暖まった。することが無いので、ニワトリでも探してきて食おうということになった。天気予報では、この天気がしばらく続くという。こんなに長時間温泉に浸ったことは、以来一度もない。みな独身で気楽であるうえ、読む本も持ってきていないのでダベるだけ。伴奏はエメラルドの湯。このときの宿屋の木造の古い建物と湯と霧の色は、数十年たった今でも昨日のように思い出される。
 案の定、翌日も雨。風は無いが視界が零だから、またエメラルド漬け。その翌日も……。体が十分にフヤケても、山の天気は一向に変わらない。

 いよいよ今日は帰るという日に青空になった。早起きしてグライダーを組立て、小高い丘から例のゴム紐で飛ばした。さすが1等飛行士の藤沢さんは見事に飛んだ。広い緑の仙石原いっぱいに、白い機体は悠悠と旋回している。みんなの顔が晴々とほころびた。やがて着陸、嬉々として丘上まで持ち上げる。今度は3年生の先輩が乗った。グライダーは威勢よく丘端を離れて空間に出た。今度は3等飛行士でもないので、悠々と旋回せず、殆ど実直ぐ降下してストンと着陸した。また丘へ引き上げるため走って行ってみて驚いた。右の翼が根元から折れている。最終日なので修理は無理というので、合宿練習はこれであっけなく終わってしまった。




絵:石野英夫(元住吉)


             外車を私たちの会に寄付


 
4月の卒業式が済んでも、昼少し前に、西郷さんは颯爽とあの外車でやってきて、航空科の製図室前で降りる。

 卒業設計が済まないので、その図面が出来上がれば卒業だという。われわれ俗人なら、一日も早く、徹夜をして仕上げても…と考えるところだが、西郷従道の息子は出来が違う。しばらく悠然と通学していた。

 やがて図面が完成、卒業と決まると、その外車を「自動車研究会」にポンと寄付して行った。

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