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編集:岩田忠利     NO.260 2014.10.01  掲載 

方言を消した東横線・目蒲線


      文・ 豊田真佐男(郷土史家。世田谷区等々力


  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』。好評連載の“復刻版”


   掲載記事:昭和60年12月1日発行本誌No.31 号名「樅」

   


         世田谷区内の方言


 
方言は郷土の手形であり、また国語文化財でもある。目蒲線、東横線が開通される以前の沿線には土の香りゆたかな村訛り≠ェ数多く残されていたが、私鉄東急線の導入は沿線各村の都市化を早め、方言を急速に消し去ったことも事実である。

 現在、世田谷区内の古老たちが使っている方言を下記にご紹介しよう。

 うなう(畑を耕す) おぞい(ずるい) おやばせもうした(ご足労をかけた)

 がめる(疲れる、閉口する) こてはらくう(沢山食べる)

こみやられる(欺される、利用される) 卯つ木株を越える(よそ者、他国から来る)

 でっくりけえり(出もどり女) でんがらすっぽ(大ぼら吹き、無責任)

 みなとが切れる(東雲、暁方の空が明るくなる) とぼそ口(とば口、入口)

 そそっ子(私生児のこと) おきて(季節はずれの温度のこと)

婿だまし(陸稲米でついた餅)





           標準語でなければ笑われる…


 
つぎに目蒲線、東横線がどのような過程で方言を消していったかを申し上げたい。

  大正11年、渋沢栄一翁は玉川村の一部と調布村や多摩川沿い一帯と荏原郡洗足村一円をイギリスの田園都市計画にならい、田園都市を完成させ、売り出した。翌年目蒲線が開通、さらに昭和2年に東横線が開通となった。その結果、田園調布は城南随一というよりは、全国的に有名な文化人の町となり、西の芦屋と並ぶ文化人住宅街となった。

 眼を転じて目黒駅をみれば、明治21年以来築地に置かれた海軍大学が大正10年の頃、目黒に移転となるや、海軍大学の教官で佐官以上の高官たちは奥沢の海軍村≠笂c園調布に住宅を持った。
 その子女たちは学業成績が抜群であった。そのため奥沢と玉川田園調布が学区の八幡小学校の学力と進学率は著しく高まるという現象をもたらせた。私が卒業した昭和
11年、母校玉川小学校の進学率は15パーセントであったのに対し、八幡小学校は昭和年にすでに95パーセントを誇っていたという事例がある。

 やがて、目蒲線・東横線沿いには海軍武官をはじめ高級サラリーマンの家族が密集した。
 そこで世田谷区の奥沢と大田区の田園調布から当時の“村訛り”が一掃されてしまった。それは、標準語でなければ笑われるというコンプレックスの賜物に他ならない。

 また、東横線開通とともに日吉に慶応大学、藤原工業大学(現・慶応大学理工学部)、武蔵小杉に法政大学が新設されると、東横線は学生や教授の通学電車となり、沿線の村々に標準語を浸透させたことも否定できない民俗史である。




絵:石野英夫(元住吉)




            砂利掘り人足と甲州訛り


 
目蒲・東横両沿線とは全く対照的なのは、旧玉川電車と中央線沿線である。

  明治18年、世田谷区等々力の豊田周作氏が東京府議会議員に初当選するや、多摩川砂利の商品価値に着目し、その利権を一手に掌握した。
 その影響で二子玉川から等々力の多摩川沿いに、村の人口の2倍の砂利掘り人足″が定住するようになった。その多くは甲州、信州の馬方、土方といった荒くれ男たちであった。

  ちなみに横須賀軍港の要塞化は、9割以上が多摩川砂利によって果たされたものである(川崎市史資料による)。
 加えて、明治
39年玉電が敷設されたが、当初は砂利電″と呼称され、都心部のビルの建設に利用された。これに従事する砂利人足によって世田谷区内に甲州の方言が輸入されるようになった。甲州訛り″というのは鉛のごとく重苦しいランゲージ・インスピレーションがある。

 下記の詑りは世田谷在来の方言ではない。甲州の方言である。

 うざってい(気味悪い) しゃっつける(打ちつける) 

 おんなのざっぺいに(女のくせに) ふんごたねる(踏みにじる) 

 まきだっぽう(薪) よてはらくう(腹いっぱい食べる)


 また甲州街道と中央本線の影響により世田谷区西部に信州の方言が紛らわしく入り込んできたこともお伝えして拙文を閉じる。

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