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早春の便りは大倉山梅林から
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今年も満開、大倉山梅林
大倉山公園は敷地面積約6万9,000平方メートルのうち約1万平方メートルが梅林です。梅林内には白加賀(しらかが)や蓬莱、一つの枝に淡い紅・紅・白の花をつける「思いのまま」など約30種類200本が植えられています。
2月下旬〜3月下旬が見ごろ。毎年見ごろの週末には観梅会を開かれ。咲き乱れる梅の下で三曲演奏や日本舞踊などのイベントが行われます。
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陽春の砌(みぎり)、皆様お元気でお過ごしでしょうか。啓蟄の季節ですね。そこで私たち人間族も家の中から屋外へ出て太陽をいっぱい浴びてはいかがですか。
渋谷から30分弱、横浜から約17分で大倉山梅林の丘、到着です。樹令30年のものから、珍しいもの14種頬が競って咲き誇っています。
とくに青味がかった白梅の散る様は風情豊かです。3万3千bの敷地には約1000本が谷の中の東屋を中心にあり、有名な俳人歌人の方々もお訪ねのようです。
由来や歴史は説が種々あります。一番確実かと思われるものは、大正15年2月11日、当時の紀元節、今の建国記念の日に東京横浜電鉄(現東急東横線)開通の折に乗客誘致のため、隣接の竜松寺から山林を買い受け、最初は白梅のみ、後に紅梅を植えたとあります。この時、これらの梅を集めるのに保土ヶ谷の岡野公園から太尾町の有志、前川清一郎氏が奔走されたと記録に残っております。
ただいまは横浜市唯一のこの梅園は年々訪れる方が多く丘陵の上からは山裾に拡がる菜の畑や遠く空に浮かぷ富士の霊峰。新横浜駅周辺の風景もこれに増して空気の美味しいこと、どうぞ一度観梅にお越しくださいませ。
道は一本道、案内の地図は不要です。大倉山駅下車、改札を右へ出て直ぐ線路に沿って、だらだらと坂を登ります。この道は右側が桜並木で、曲りながらも一本道です。ゆえに、迷うことなく梅林に突き当たります。車は入れません。無理に入っても駐車場もありませんゆえ、為念。 文 小高 梓(大倉山)
歴史探訪をかねた花見は、長尾の里、2ヵ寺へ
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境内には綺麗に手入れされたツツジが3000株
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樹齢300年のツツtジの大木に圧倒され、体全身が赤く染まります
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まずは神木山 等覚院 別名「つつじ寺」へ
家並が途切れた静かな山の麓。樹木の立ち並ぶ道に歩を進めると、一瞬、だれもが息を飲むであろう風景に出合う。
古風な装いの神木山(しぼくざん)等覚院の山門。その背後には緑とひときわ色鮮やかなツツジの群落が、たとえようのない風情を味あわせてくれる。このお寺は古くからつつじ寺≠ニして名高く、歴史の織りなす花と緑のファミリー散歩道(長尾の里めぐり)の一角を成している。
境内には約3000株のツツジがあり、樹齢300年と言われるツツジの古木が多数、一見の価値がある。
山門をくぐりツツジの色に染まりながら階段を登ると、正面に銅葺きの本堂、左に絵馬堂、右には最近完成したばかりという書院が白木を見せ、本堂と対象的に時の流れを感じさせる。
年々参拝客の姿が多く、静かな里もちょっとした賑わいをみせている。花の色に顔を染めながら、おもいおもいの時を楽しみ、味わいつつ、春爛漫の一日が終る。 文 川田英明(日吉)
次は長尾山 妙楽寺(威光寺) 別名「あじさい寺」へ
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十数種4000株以上のアジサイが訪れる人々の心を和ませる
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頼朝ゆかりの名刹に鎌倉時代へ思いをはせて…
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妙楽寺(威光寺)は、歴史上幻の寺″とされていた。しかし、吾妻鏡(鎌倉幕府の記録)に登場し、それがこの妙楽寺であることが5年前、判名した。源頼朝が新興の都を鎮護するため、多摩川のほとりにある一寺を鎌倉守護の寺とし、実弟の源全成(幼名 今若丸)を入寺させている。
この頼朝ゆかりの寺が今はアジサイ寺≠ニして名高く、5百平方b、境内一面に十数種4000株以上というアジサイが植えられている。
梅雨時のうっとおしい空の下、規則正しく並べられた石畳みの参道を覆うほど伸びた枝葉。白、青、紫、淡紅と変化する花弁がときおり雲間から差し込む陽光に照らされて一層鮮やか。そのほのかな香りとともに訪れる人々の心を和ませてくれている。
その奥に黒く年輪を重ねた山門と本堂が落ち着いたたたずまいを見せ、歴史の重みを感じさせる。
15年前にツツジの代わりに植えたという住職。丹精こめて造った花園にひとしおの愛着を持たれ、温厚なお人柄の陰に心ない人々の戯れごとを気づかう姿が印象的であった。 文 川田英明(日吉)
爽やかな風と緑の大地、藤本農園(現・馬場花木園)へ
頃は弥生。早春の庭には梅。柔らかな陽を浴びて咲き誇っている藤本農園です。木々には野鳥が数多く集い、池には水鳥がどこからともなくやってくる。この一角だけは別世界のような静けさ。
4〜5月にかけて石楠花、牡丹(ボタン)が咲き乱れる色彩のあでやかさは、澄んだ空気ともあいまって、観る者の心に何かを呼び覚ましてくれるようです。とくに牡丹はその株数と美しさを誇り、藤本農園に牡丹ありとは粋人の認めるところ。6月には花菖蒲の優雅な面影を慕ってみたくもなります。
経営者・藤本達雄さん(46歳)は疎開してきたこの土地から、戦後、急速に自然が失われてゆくのを見てきた一人。せめて周辺だけても……と決心、昭和45年頃から積極的に木を植え始められました。
今では1万坪の敷地は緑に囲まれた公園そのもの。子供たちが遊び場として欲しがったのは当然でした。が、樹木の大事を計った藤本さんは、時期によって入園料をとることにしたのです。
花を満喫した多くのお客様が、鉢に植えられた苗木を手にこの花園をあとにしていく……。じつは本誌6号の表紙を飾った(写真)のはこの藤本農薗なのです。 文 野沢明美(日吉)
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昭和56年(1981)5月、藤本農園の茶室 撮影:佐立良広さん(菊名)
昭和56年7月1日発行本誌No.6 号名「榎」の表紙絵です
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交通
鶴見駅行臨港バス 東高校前または馬場町下車、徒歩7〜8分
間い合わせ045(581)3995
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かつては江戸一番の桜「金王桜」 渋谷の金王八幡神社
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天保5年(1834年)の金王八幡神社周辺
「江戸名所図会」から |
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安藤広重の浮世絵「金王桜」
「江戸名所図会」から
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昔から花と言えば上野ですが、それ以上に江戸時代の世に知られていたのが、渋谷2丁目所在の金王八幡宮の「金王桜」です。
安政6年(1859年)、日本橋の須原屋茂兵衛が出版した「御江戸絵図」には、江戸の桜の名木として第1番に、この渋谷の「金王桜」が挙げられております。ちなみに2番目には上野の「秋色桜」が記されてあります。
この「金王桜」の由緒については、「御江戸絵図」に、次のような一節があります。
<一名、憂忘の桜とも号けたりしとぞ、伝へ云ふ。往古久寿の頃、源頼朝鎌倉亀が谷の館に植えおかれしを、金王丸に賜ふの後この地に移し、氏神八幡宮の瑞垣にううるとなり。或いは社記に云ふ。文治5年(1189年)7月、頼朝公奥州泰衡(やすひろ)退治凱陣の頃、当所に詣で給ひ、太刀一振を収め給ひ、又金王丸の影堂に立寄り、その誠忠に感じ給ひ、鎌倉亀が谷より桜一株を裁えられて、金王桜と号けられたるともあり。云々>
このような古い言い伝えと共に「金王桜」は、昭和の今日に至るまて代々の神職たちの手によって、その花の実を拾われ、育て植えられて見事な花を咲かせてきました。そして現在、もう既に子、孫の樹が次代を受け継ぐべく境内のあちこちに若い生命をすくすくと伸ばしております。
この桜は八重と一重のまじり咲きの長州緋桜という珍らしい品種で、花時には古雅にして艶麗な姿を見せてくれますが、江戸時代には浮世絵にも描かれ、歌にも歌われ遠くから文人墨客が訪れてきました。傍らには、
「しばらくは花の上なる月夜かなし」
と刻まれた芭蕉の句碑も建っています。また、「金王桜」を中心に付近一帯は桜の木が多かったので、戦前まではお花見の名所として季節には評判になりました。文 加藤照雄(渋谷)
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平成21年4月の金王桜 撮影:岩田忠利
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