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昭和6年地形図「神奈川」
【横浜市地形図複製承認番号 平26 建都計第9 0 2 6 号】
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神奈川」拡大地図
【横浜市地形図複製承認番号 平26 建都計第9 0 2 6 号】 |
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新太田町駅付近
2014年7月20日撮影:この遊歩道が東横線の跡地
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新太田町駅付近
2014年7月20日撮影:東横フラワー緑道碑石
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新太田町駅跡標識
2014年8月14日撮影:南側マンションの生垣内
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高島山トンネルの出入り口にあった 神奈川駅(横浜市神奈川区台町)
神奈川駅は横浜方の高島山トンネルを出たところにありました。地図を見てみますと2面2線のホームの位置をずらした千鳥の相対式です。
鉄道関係の方から、駅は人の流れ、物の流れ、情報の流れの結束点であり、いつの時代でも地域の文化を担ってきたと伺ったことがあります。
この駅は旧東海道の街並みに面しており、多くの往来があったと思われます。当時は省線、京浜電気鉄道、横浜市電の駅が集まっており、地域の中心地だったようです。しかし、1950年(昭和25年)に横浜駅に近いこともあって、廃駅になりました。
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神奈川駅跡
2001年7月20日撮影:海側から見るが駅の痕跡なし
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神奈川駅跡
2001年7月20日撮影:山側から見るとホーム跡らしきものがあります
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高島山トンネル
2001年7月20日撮影:坑口は矩形になっていた
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神奈川駅跡
2014年7月20日撮影:整備が行き届いて痕跡もありません
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高架橋部分が遊歩道になる 桜木町駅(横浜市中区桜木町)
桜木町駅は初代横浜駅でしたし、高島町駅も2代目横浜駅でした。それらがともに2004年(平成16年)に消滅したのは、前述の通りです。
ただし、初代桜木町駅は国鉄の駅であり、東横線はJR駅に沿うように山側に乗り入れていました。
「東横線最後の日」として、別れを惜しむ催しが、東急電鉄主催で2004年(平成16年)1月30日に行われました。とは言え、ホームや駅の一般開放ですので、何かあっけらかんとしたものでした。
横浜から桜木町までの高架橋の部分を、遊歩道にする計画があり着々と補強工事が進んでいるようです。
高島町から桜木町の高架橋下の壁には、いたずら書きのようなペンキ絵が描かれていたのですが、世界的に有名な画家の絵もあるとのことで、探しに行きましたがサインがある訳でもなく、結局わかりませんでした。
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桜木町駅
2004年1月30日撮影:勤め人風の人がちらほら…
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桜木町駅跡
2014年8月16日撮影:高架橋の断面や盛土の跡が残る
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高架橋下
2003年6月21日撮影:このような絵が全スパンに描いてあります
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高架橋
2014年8月16日撮影:躯体の断面修復が行われています
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アーチ式の独特な形の駅舎 高島町駅(横浜市西区高島)
高島町駅は鶴見線の国道駅で述べましたように、コンクリートの神様と言われた阿部美樹志博士が設計したものです。アーチ式のラーメン構造が特徴で、人間的な柔らか味を感じさせます。私はこの駅で降りた記憶があまりありませんが、旧横浜駅の煉瓦基礎が発掘されてから、この近所を歩き回るようになりました。
阿部美樹志博士は、1883年(明治16年)に岩手県関町に生まれ、札幌農学校土木工学科(後の北海道大学)を卒業し、鉄道作業局に入局。留学したアメリカ・イリノイ州立大学でph.D.(工学博士)を取得し帰国後、東京〜万世橋間の高架橋を設計しました。東京横浜電鉄(東急)では、渋谷、横浜、神奈川付近の駅、高架橋を設計しています。
高島町は1928年(昭和3年)に手掛けています。駅裏に回ってみましたが、普通のラーメン構造でした。博士は他にも、中央大学図書館、阪急ビルディング、阪急西宮球場などの設計をし、土木、建築にわたる多才な人であったようです。
※「阿部美樹志とわが国における黎明期の鉄道高架橋」小野田滋(鉄道総合技術研究所)土木史研究 第21号2001年5月 参照しました。
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高島町駅お別れの日
2004年1月30日撮影:最後の日であり惜しむ人が集まりました
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高島町駅入口
2004年1月30日撮影:高架橋部分は年月の劣化が進んでいる
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高島町駅裏
2014年8月16日日撮影:階段のスロープが残っています
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