編集支援:阿部匡宏
      編集:岩田忠利     NO.176 2014.8.23 掲載 

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昔の町並
 昭和10年の元住吉駅周辺

                                                 

   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和61年5月1日発行本誌No.33 号名「柳)」

   
構成・編集 :岩田忠利(編集長) / イラスト ・マップ石野英夫(元住吉) 
    復元 :徳植 昇(中原区木月)


      駅前を「都市」と呼んでいた住民

                   文 徳植 昇(マップ復元者。中原区木月)


 
昭和初年、多摩川に鉄道橋が完成して渋谷と横浜が東京横浜電気鉄道によって結ばれてから、静かな田園と丘陵に囲まれた寒村が活気を呼び起こしてきた。

  それ以前、当地は橘樹郡住吉村木月と称し、やがて中原町となり、さらに川崎市に合併するに伴い「住吉」の名も消えてしまった。そこで地元の人々の強い要望で「元住吉」という駅名が残されたようである。

  駅前周辺の都市開発が進められ、地元の人々は駅前を「都市」と呼んで親しんだ。しかし当初は「都市」とは名ばかりで、それらしいものは、整備された道路と上下水道、街灯の裸電球ばかり・・・…。駅舎は土で盛られた粗末なホームに数名の人が僅かに風雨をしのぐ程度の小屋造りの無人駅。一日の乗客も数える程度、客が居なければ通過してしまうという有様だった。

 やがて駅舎も改築され、従来の踏切から直接ホームへ上る方式から、跨線橋上に改札口が設けられる方式へと変わった。

 昭和10年前後は、そんな変革の中に人々が少しずつ駅前へと移動し始めた時代である。都市の分譲は区画整理されているとはいえ、1坪(3.3平方b)当たり5円と、当時としてはなかなか高値であったようで、将来への夢を託して地元の人々が少しずつ買い戻す他は、よそから来ても商売はままならぬ状態…。

 当時の記憶をたどると、およそ下図のようになる。ささやかな駅前周辺であった。それは商店街というよりは、開発途上の区画整理地に点々と建ち並ぶ野原の中の店であり、住宅であり、田んぼを隔てて富士山を望むことができる、のどかな田舎町であった。
 


      大正15年の東横線開通時から昭和5年までの元住吉駅

 
開通当時、乗客が少なく、電車は乗客がいないときは駅に止まりません。運転手と車掌は夫妻でした。切符は車内で車掌の奥さんが売っていましたので、改札口はありません。
 提供:「とうよこ沿線」編集室



  昭和26年、教室から富士山を望めた住吉小学校

 
周囲は一面の田んぼ、中央後方に冠雪の富士山が眺められます。木月伊勢町からの風景写真。今は建物が密集、同方向の撮影は不可能です。
 提供:石井伊佐男さん(木月)



  昭和31年秋、住吉神社裏の田んぼで脱穀

 
ここは木月1丁目の古尾谷喜重さんの田んぼです。
 左の垣根は丸野実さん宅、隣は近藤染物店(どちらも下のマップに載っています)。今のこの辺りは建物が密集し当時の面影はありません。
 提供:徳植利夫さん(木月住吉町)

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