編集支援:阿部匡宏
投稿:益田 勲(横浜市神奈川区神之木町)  編集岩田忠利     NO.146 2014.8.05 掲載

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樹木  駅名の由来@  隧道と地下壕
                                                 


 はじめに

  隧道の造り方について


 「隧道(ずいどう)」と呼ばれるものは、馬蹄形や半円型のアーチ構造の“山岳トンネル”と、銀座線のように表土を掘って造った“四角い開削トンネル”と、円形断面の推進工法の“シールドトンネル”に大別できます。

 例えば昔ながらの隧道や地下壕は、この図1に示すように大昔は鑿(のみ)と槌(つち)で掘っていました。いつ崩れるか分からない大変危険なものです。鎌倉や江ノ島にある洞窟や、大変地盤の良い所(土丹層と呼ばれる固い泥岩)に掘った軍の施設とか防空壕がそうです。

 技術的に時代が進むと支保工と矢板と言うものでトンネルの落盤を防護しました。図では木製と鋼製の支保工の裏に矢板が並べられている様を描きました。内側に覆工コンクリートを打設してトンネルを造ります。

 ついでに述べておけば、最近の山岳トンネルの多くは“NATM(ナトム)工法”と呼ばれる、地山を掘削して支保工で支えたのち、吹き付けコンクリートでトンネル内部を覆い、ロックボルトと呼ばれる鋼線を地中に刺して強度を確保します。

 だいぶ専門的な説明になってしまいましたが、私が興味があるのは、煉瓦積隧道や戦時中の地下壕、古い道路や鉄道のトンネルです。



隧道の造り方の推移(「建設業界」日本土木工業協会誌別冊200212http://www.nikkenren.com/archives/doboku/data/kensetsuhi.html参照



   田谷の洞窟 (横浜市栄区田谷町 定泉寺境内)


 
「田谷の洞窟」は、一見の価値があります。多分、ここは日本の中でも最大級の真言密教の地底伽藍だと思います。横浜市栄区田谷町ですが、鎌倉、大船と隣り合わせのロケーションです。田谷の洞窟は丘陵台地の断崖のところにある定泉寺の敷地内にあります。

 このお寺さんの境内には弘法大師像が祭られており、20bぐらいの高さの滝がありました。
 ここの台地は三浦層群と呼ばれる土丹層です。もとは海底に積もった土が長い間、水圧を受けて固まり隆起したものです。なので、土中に150万年前の貝の化石などが見られたりします。

 拝観料を払いますと小さなローソクを渡されます。1キロbに及ぶ洞窟の中で明かりが無いと不安です。入り口近くに大きなローソクが灯っています。気が付くと洞窟の中は、至る所にローソクが灯っています。私たちの前に入っていたのは、小学生とその父親でした。

 この洞窟のアウトライン配置図(右の図、地下壕の詳細図参照)を示しておきます。サンフラワークラブの探検したものを示しておきます。図中に拝観位置が分かるように丸番号を付けました。

 昇龍、降龍が掘られている像の所まできました。なるほど、真言密教のような絵柄が見えます。天井に家紋が沢山あり、剣方喰は私の家紋です。

 行者道のほうに迂回して行くと、大きな洞窟伽藍に出ます。梵語や仏像、家紋などが側壁、天井に彫られています。この洞窟が手で彫られたことも驚異的で、真言密教の僧たちが掘り抜いたそうです。なかには修行のための結迦趺座(けっかふざ)をする所もありました。胡座台座の前に地下水道があって、覗き込むと水音がします。

 中にはご愛嬌のように鶴亀の彫り物もありました。総てレリーフ状に彫られています。途中で落盤している箇所も随所で見られ、行き止まりの洞窟も幾つかありました。

 田谷の洞窟の由来は不明ですが、古くは古代人の横穴式住居跡だったとも言います。一般的には鎌倉時代の初期に掘られたようです。田谷山定泉寺の寺域には朝比奈三郎の館があり、信仰心が厚くこの洞窟内に弁財天を勧請しました。


地下壕の詳細図

  参考文献:田谷の洞窟、吉田孝 宗教工芸社)


定泉寺の山門
2005年5月7日撮影:由緒のあるお寺さんです



地下壕入口
2005年5月7日撮影:崖をくり抜いたもの




昇竜、下竜
2005年5月7日撮影:レリーフ状に削ったもの




天井の家紋
2005年5月7日撮影:剣方喰,鷹羽、桔梗紋が見えます



中伽藍
2005年5月7日撮影:十二神将が祭ってある




            瑳陀山一つ亀
2005年5月7日撮影:瞑想の場でしょうか,右手に亀が首を出しています




地下水道
2005年5月7日撮影:地下に川が流れている





大伽藍
2005年5月7日撮影:四十九院種子曼荼羅




朝比奈弁財天像
2005年5月7日撮影:朝比奈三郎の勧進によります





   大原隧道 (横浜市南区清水ヶ丘)



 大原隧道は、高さ3.62b、幅2.44b、延長は 254bの大きさで、人と自転車ならようやく通れるような所です。

 1928年(昭和3年)7月に完成しました。夜は一人では絶対行きたくありません。大原隧道のある清水ヶ丘は、地下水が豊富に湧き出る場所で、ここには、横浜国大の教養学部だったかがあった所です。
 この大学の学園祭に、当時横国大生だった兄に連れていってもらい、「心臓破りの丘」と言われた清水ケ丘をフーフー言って登った記憶があります。

 この丘を貫くように大原隧道があり、その入口近くの公園に水道遺跡で述べた獅子頭共用水栓があります。



大原隧道
2001年2月25日撮影:坑口全景



         大原隧道内
2001年2月25日撮影:内部はコルゲート管補強がされています




    東隧道 (横浜市保土ヶ谷区岩井町)



 東隧道は、高さ 6.3b、幅 5.7b、延長168.71bで大原隧道と同時期に造られましたが、二廻りも大きく自動車が通れます。坑門工(坑口の仕上げの面)はレンガ積みのように見えますが、コンクリート造りです。

 坑口だけ紫色の煉瓦(焼過煉瓦)をフランス積で積み上げ、花崗岩で造られたトスカナ式のオーダーで支えています。この二つの隧道はともに、西谷浄水場から蒔田・磯子方面への水道本管を併設しており、水道道とも言えます。この二つの隧道は兄弟隧道とも言われ、土木学会の土木遺産に推奨されております。



         東隧道
2001年7月20日撮影:ナトリウム照明のせいか赤く映ります




東隧道内
2001年7月20日撮影:道路標識が興醒めです




    高島町隧道 (横浜市神奈川区台町 旧東横線)



 高島町隧道は東横線反町〜横浜駅間にある鉄道トンネルです。

 1927年(昭和2年)828日に渋谷駅〜 神奈川駅間が運転開始ですから、この隧道は大正時代に施工されたことが分かります。この時から東横線と名付けられたようです。

 しかし、つい先ごろと言っても10年前ですが、2004年(平成16年)131日に東横線の地下化に伴って、遊歩道に生まれ変わりました。

 平日に行ってみたのですが、意外と人通りが多いのには驚かされました。



        旧東横線の高島町隧道
2014年7月20日撮影:隧道の上の丘に高島 嘉右衛門の住居跡があります




        高島町隧道内
2014年7月20日撮影:綺麗に補修、補強されていました


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