編集支援:阿部匡宏 / ロゴ:配野美矢子
            編集:岩田忠利     NO.145 2014.8.04 掲載   

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歴史

 特集「多摩川V」

                                                 

  沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”


   掲載記事:昭和59年5月1日発行本誌No.22 号名「槇」

   
執筆・撮影 :一色隆徳(祐天寺・大学生)  絵:石野英夫(元住吉・イラストレーター) 
    
    
取材:小田房秀(二子玉川)/戸次政明(元住吉)/福田智之(大森)

河川……絶えず流れゆく水……大いなる自然の中でも最たるものといえよう。飲料水を与え、魚や耕作物を与え、そして安らぎを、時には自然の脅威を投げかける。我々人類は河川なくしては存在し得ないだろう。

 沿線においては最大規模を誇る河川・多摩川。そこでも人々は暮らし、様々なドラマが展開されている。

 今回は、そうした「生活・歴史・社会」といった面から多摩川を見てみよう。



 川は恵みの源、反面水との闘いの場



 大昔--そう、何千年、何万年も昔の時代。東京や川崎、果ては関東平野一帯までが海底にあったという。
 時が流れ、自然の力は川の流れによって土砂を堆積させ、また土地を隆起させることで、今の平地を作りあげた。

 生きとし生けるものは全て、水なくしては存在し得ない。人は生活水を、魚を、農工用水を得る。必然的に多摩川は「溜ま場(タマリバー)」になったといえよう。

 「多摩川に晒す手作りさらさらに 何そこの児のここだ愛しき」。ごぞんじ万葉の歌だが、古来より麻布産地の多摩川。その名の由来は 「多麻がは」によるという説が有力だ。清流であった往時の姿が目に浮かぶ。

 文明開化を経て、日本が工業国としての道を歩みだすと、多摩川も漁と農業の「清流時代」から、水道・工業用水としての存在意義を持つ河川と変わった。有名な玉川上水、沿線でも二ヶ領・六郷の両用水等があり、また東横線鉄橋わきの調布堰でも昭和11年から45年まで都民に飲料水を供給。取水は工業用水のみになってしまったが、上流部は今なお都民の重要な水源となっている。

 さらに折からの高度経済成長で流域の人口は激増、排水は水を汚染した。かつて手づかみで獲れたという天然鮎も絶滅に瀕している。多摩川は死んだという人も少なくない。

 河川敷の砂利も、近代化に伴うコンクリート需要から乱掘されて、環境・水防上、大きな危険を生み出した。

 多摩川はあらゆる恩恵を授けてきたが、同時に多くの災害をもたらした。史上、何度となく氾濫し、家や作物を押し流した自然の力……なかでも昭和49年の狛江の決壊事故は記憶に新しい。自然を弄び、わがもの顔でふるまう人間に対して、大地が怒りをもって報復したのだった。

 人々には川は恵みの源であり、同時に激烈な闘いの場でもあったのだ。


        東京・神奈川の架け橋、丸子辺り


  昔から大いなる流れ、多摩川は、農作物を潤す貴重な水源として愛される反面、しばしば起きる洪水によって人々に多くの被害を与え、苦しめてきた。

 今、東横線が走っている付近でも、村を分断され、交流を防げていた。村人たちは仕方なく、川の中を歩いて渡り、船が使えるようになってから、細々と行き交うのみだった。

 丸子の渡し舟は、中原街道の東京側と神奈川側を結ぶ重要な交通機関であったが、いかんせん非能率的な乗り物であった。また、大量の人荷を積めない上、雨天下では運行できないといった問題があった。バランスが崩れやすく、多数の人命が川面に消えたという。


 話は変わるが、大正15年東横電鉄(今の東急)が多摩川園〜横浜間に開通した。人の往来は危険な船を使わなくても良くなったが、荷物や車は相変らず渡し船を使わなくてはならなかった。上流には二子橋がすでに完成していたが、丸子橋の方は昔から請願が出ているにもかかわらず、認可がおりなかった。

 当時中原町長だった安藤氏らが中心となり、現状を打開すべく大運動を展開した。数万枚のビラを、渡し舟を使う人々に渡し、橋の必要性・重要性を訴えていった。時代は昭和に移り、架橋運動は活発化していった。国の補助金も、一時は繰り延べになっていたが、昭和6年に復活し、関係町村と東横電鉄からの寄付も集まることになった。

 待望の丸子橋は、昭和7年から工事着工、同9年暮れに完成、そして昭和10年5月に完通となった。長かった架橋運動は終わりを告げ、同時に、丸子の渡しも長い歴史の幕を閉じたのだった。



丸子橋(手前)と東横線

母なる川・多摩川によって生きてきた人々は数知れぬほどだったろう。水を使っての農・工業、あるいはその水自体から魚をとる。砂利を掘る人もいれば、渡し守や舟大工もいたという。

 それぞれの仕事を多摩川に求め、まさしく自然と密着した生活を送り、それ故に自然と苦楽を共にする日々……。



    築堤に消えた青木根集落


 川崎側の堤防の内側に青木根という集落があった。現在の東横線鉄橋と丸子橋との間、今の交通公園あたり一帯。
 古くから多摩川の洪水に悩まされてきた近隣住民による築堤の陳情がようやくかなって着工されたのが大正7年(1918)。これによって何千、何万という住民が水の脅威に脅されずにすむようになったが、青木根の人々は住みなれたこの土地を立ち退かねばならなかった。


  現代では考えられないことだが、青木根集落の消滅には次のような悲話が・・・。
 多摩川の改修工事が始まり「お国のためといわれ、耕地権の補償もなく、代替地の配慮もなく、古老もこんな安い値段でと嘆く、坪当り1円で強制買収され、住民たちは、泣く泣く立ち退き、苦しい生活と闘かわねばならなかった。


 以下の家並みは、本誌第38号の26〜27ページに築堤工事で消えた家並みを再現した。詳しくは38号で。


青木根集落があった交通公園のあたり



大正5年以前、青木根集落の家並(本誌第38号から)



          丸子の渡し


 前ページに書いた「丸子の渡し・・・市ノ坪の大貫六三さん(63歳)にお話をうかがった。
 先代まで船頭をしていたという大貫家は同業者間でも親分格で、当初は丸子・二子の渡しの大半の営業権を持っていたという。丸子だけでも年収23000円、サラリーマンの年収が500円位の時代だから相当な利益があったらしい。そのため、上丸子村の住民たちが渡船の権利を譲るよう訴え、大貫家は半分の権利を譲渡した。その結果、船頭の仕事は3日に一度の輪番制(つまり月に10日間)をとり、残り20日はちょうちんや傘を作って生活していたという。



“平成の渡し守”と言われる榎本幹雄さん(上丸子八幡町)の貸ボート船着場


 また、日吉に住む小宮康男さん(56歳)も矢口の渡し守の家に生まれた。「親父は舟大工をするかたわら船頭をやっていたんですよ。本業が忙しい時は『おい、お前やれ』ってんで、当時12歳だった私が舟を漕がされたもんですよと話す。

 大人でもバランスをとるのが難しく、力を要するこの仕事、まして幼い小宮さんには大変だったろうが、一日2〜3円という渡し貸は結構な小遣い稼ぎになったそうだ。

 渡し守--彼らは架橋までの多摩川における交通を一手に担い、その唯一のかけ橋″を守ってきた。そのリスクはあまりに大きく、責任も重かったといえよう。


    多摩川砂利の採掘


 多摩川における砂利採掘の歴史は長く、江戸時代から行われていた。
 当時はまだ庭に敷く程度のもので、規模も微々たるものだったが、明治維新を経てコンクリート技術が欧米より伝来するに至って、その需要は一気に拡大した。良質な上に、近代化を図る東京に至近の産地とあって、多摩川は“砂利舟ラッシュ”となる。

 さらに震災によって首都圏が甚大な被害を受けると、コンクリート材となる砂利の需要は激増。熟練者はサラリーマンの月収の半分を一日で稼いだというからすごい。それだけの高収入ゆえに、それまで農閑期の副業としての採掘も、本業とする人が多くなった。
 そうして河原の各地で乱掘が進むと、川掘りから岡掘り(堤防外の旧流路跡を掘る)へと採掘方法が変わってゆく。

 また、砂利の輸送には鉄道が多用され、玉川電気鉄道(玉電)や南武砂利鉄道(現・南武線)などが敷かれた。
 東横線 (当時の東京横浜電気鉄道)も例外ではなく、砂利輸送を主目的の一つとしていたという。

 
中原区等々力の菊地金次郎さん(85歳、15号「アルバム拝借」参照)は、戦前200人もの従業員を使った採掘業の第一人者。「砂利舟とトロッコを使って新丸子まで運んだものです。おかげで新丸子は全駅中で収益トップでしたよ」 と。

 戦後まもなく多摩川流域での採掘は下火になり昭和39年、全面禁止となった。
 採掘跡は今でも等々力緑地内の池として残っている。(本誌15号参照)首都圏各地の大ビル群--これら全ては多摩川砂利″で作られている、と言っても過言ではあるまい。



上丸子付近をゆく砂利舟(大正中期)



砧村(世田谷)の砂利採掘風景














   流域の農業・漁業


 流域の農業は直接多摩川の水を引いて行なったものではなく、むしろ川崎側の二ケ領用水と東京側の六郷用水(2021号「沿線の河川」参照)など、用水によるところが大きい。いずれも多摩川から引水したもので、間接的に多摩川の水を使っていたことになる。

 大正末期から新丸子で米屋を経営している中村直吉さん(84歳)に話をうかがってみた。
 沿岸では稲はもちろん麦・桃・梨・柿などの果樹を栽培していた。特に「多摩川梨」は有名で、梨の代表種である「長十郎」も多摩川流域がルーツだという。が、昔は広大であった農地も、押し寄せる都市化の波に呑まれ、全て宅地や工場に変わってしまった。今は久地(川崎市高津区)や砧(世田谷区)あたりまで行かないと農地を見ることもできない。

 また、かつて漁業は主に農家の副業として行われてきた。中原街道沿いに住む山本吉太郎さん(73歳)は「砂利舟を利用して投網で鮎をとったり、観光客相手に屋形船で天プラや塩焼を食べさせたもんです」。現在天然鮎は死滅、下流で養殖されていたハマグリや海苔も水質悪化によって消え去ったという。

 現在、鯉、鮒・鮎等が棲息するが、いずれも放流による成果が大きいという。(川崎河川漁協・真下久治さん談)

 多摩川の生業は戦前、あるいは戦後間もなく消えていった。往時を語る人も今は少なく、近隣の多摩川で生計を立てているのは、中原区上丸子八幡町の貸ボート業・榎本幹雄さんだけになった。



梨の王様、「新高」

多摩川沿岸の稲城市の梨園で。
撮影:臼井昭子さん(菊名)



二子橋下流でアユ捕り専門の漁法、“徒歩(かち)打ち”
  提供:菱沼洋子さん(世田谷区玉川2丁目)




   多摩川の桜・船・花火・鮎

                       文 小林英男(郷土史家・武蔵小杉)


 「多摩川」名の由来は、上流に丹波山(たばやま)村があり、丹波川と呼ぶ―― このタバから訛ったという説。また、多摩川中流の府中に大國魂神社があり、この霊(たま)から神聖な川とする説、水が玉のように綺麗であったからという説がある。

 桜は稲田堤が一番有名であったが、今は跡かたなし。樹齢か、虫害か、残念である。その後川崎市ではその近くに稲田公園を造り、桜百本を植えている。
 昭和4年4月、時の春藤(しゅんどう)嘉平川崎市長を会長とし、安藤中原、天明東調布両町長を副会長として高津町、東京側は羽田町から砧村に至る1市8町村で「大多摩愛桜会」を結成し、両岸約40キロに1万本の桜を植える計画を立て、多摩川園側の浅間神社で翌5年3月15日に朝日新聞社の後援を得て植初式を挙行した。鷹司公爵題額の愛桜碑が鳥居の右手、大樹の下に建てられている。

 は今電車から見えるものは、貸ボートくらいのものであるが、昭和中期までは砂利船、漁船、渡船があり、大正時代までは春になると上流から筏(いかだ)が来るのが見えた。明治末期から大正にかけて下流にできた工場群は伝馬船で原材料や製品か横浜まで輸送し、この舟運の便が川崎の工業に先鞭をつけたものである。
 さらに古くは、水量も多く河も深かったので、小杉辺まで底の深い船が入り、芝の増上寺へ納める米を積み出した三右衛門河岸跡も等々力緑地の近くにある。

 花火は二子の花火が明治末期で一番早く、大正2年中原村役場の人たちが小杉から船を出して二子まで見に行き、私も祖父に連れられ行った記憶がある。玉川電車の主催で近隣から自転車でよく見に行った。
 川崎市制記念の花火の打ち上げ場所は、最初六郷橋であったが、その後は小向の先に、今は更に上流の第三京浜の方へ移った。
 一番規模の大きかった花火は、丸子の花火であろう。丸子園の創始者・大竹氏は三河の出身。三河といえば煙火の本場。これを東横電鉄が後援し全国煙火競技大会の形でやったから、各地から煙火師が集まり、とても盛大であった。打ち揚げ場所は電車の鉄橋の上流、仕掛け花火がまた素晴らしかった。
 戦時中は一時中止、戦後復活したが交通事情から今はなく、残念である。細く長く続いているのは、稲田多摩川の花火。

 多摩川のは古来有名、鵜飼いも行われた。しかし将軍家や諸大名への御用達には網で漁ったものを献上したと古文書にある。

 最後に珍談を一つ、古老の話である。大正時代まで小杉の河原でも鮎はよく釣れた。毎年解禁日は6月1日。だが、スリルはその前だ。何人か連れで夜中に出掛け、夜明けを待って釣り始める。頬かむりをして「釣れますか?」などといってビク(寵)をのぞきに来る男がいる。
 やがて、制服に着替えた巡査が取締りにやって来る。すばしっこい男は、いち早く対岸へ渡って上陸する。そのうち向こうからもこっちへ向かって逃げて来るではないか・・・。もちろん両岸の警察署が打ち合わせての一斉検挙である。結局どちらかで捕まることとなる。中には相当の名士もいたそうだ。



休日の太公望。後方は多摩川鉄橋



   母なる多摩川


 「多摩川は死んだ」という人がいる。排水溝と化した川は、もはや存在する価値はないのだそうだ。

 「どんなに汚なくても川はすばらしい自然だ」という人もいる。少々汚れても、大いなる自然は不滅だ、と……。

 私は後者を採りたい。かつての清流も今や悪臭ただよう汚濁河川。しかし、川辺に坐って眺めてみるなら、野鳥のさえずり・野の花・鯉の群れ等々 ―― 様々な発見、そして驚き。

 都市化した社会の中で人々は多摩川に何を見るか? 今は人も川に暮らし、遊び、安らぎを求めてやってくる。

 母なる多摩川、川面は鏡。人それぞれの想いを映し、限りなく流れ続ける。

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