編集支援:阿部匡宏
編集:岩田忠利    NO.129 2014.7.26 掲載 

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歴史
    菊名
                                                

    沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”


    
掲載記事:昭和58年7月1日発行NO.17 号名「杏」
    執筆:前川正男
(都立大・郷土史家)  絵:斎藤善貴(尾山台) 


新幹線、乗り換え失敗談


 関西から新幹線で帰ってくるとき、初めのうちは新横浜駅で降りて菊名へ出て、東横線で都立大学の自宅に帰った。

 ところが、これはいつも失敗した。電車に乗ると、必ず反対の方へ向かっているのだ。気がついた時はもう手遅れで、引き返すために大分時間がかかる。結局、東京駅からバスで帰ったほうが早い。
 一度などはあわてて降りて、京都で買った土産物を新幹線の網棚に忘れてしまった。千葉の市川に帰る仲間が、きっと気付いて持ち帰ってくれたろうと思い、電話してみたらその通りだった。明日東京へ出る用があるから、東京駅地下のSL大動輪前の待合場所へ、、正午に来てくれという。東京駅へ何度も行くことになってしまった。それにこりて、今では新横浜で降りることはない。



一両がはみ出し、踏切上に停車する急行電車

   先生のお嬢様が乗ってくる緊張の駅

 
 学校が横浜だったので、都立大学から菊名を通過して3年間通学した。ここの錦が丘にコワイK先生がおられたので、菊名を通過するときは、車内でいつも緊張した。しかも、先生の美人のお嬢様がフェリスに通学していたので、朝は同じ電車に乗ってきやしないかと、またまた緊張したものだ。菊名は緊張の駅だった。

   終戦後の菊名駅



  
終戦後の食糧難時代には、毎朝夕、菊名で横浜線に乗換えた。原町田駅から歩いて30分の滝の沢に約3000坪の畑を毎日耕しに行くためだ。
 この土地は、都立大学の父の工場を疎開するために、私の名義で買っておいたものだった。ところが、疎開寸前に終戦となってしまい、ひどい食糧難になったので、毎日家族全員で通勤耕作していたのである。
 当時の菊名は殺伐たるものであった。三方を山で囲まれたこの駅は、集中豪雨があると、すぐにレールが水に沈んで東横線が不通になるし、横浜線のホームには屋根も無かった。電車の間隔も長かったし、吹きさらしのホームには待合室も無かった。

           駅大改修と東急ストア


 
東急が菊名駅の大改修を計画したのは、出水と新幹線のためであったが、その際駅の天井を強固にして、大東急ストアを作ってしまった。近隣のスーパーや商店は大打撃を受けたらしい。中小企業というものは哀れなものである。
 
しかし、世の中には不思議なことも、あるもので、中小企業でも大企業に負けないで成長してゆく、勇ましい例もある。

  たとえばカメラのドイ(北九州のカメラ小売店から…)、メガネドラッグ(メガネの利益率がべら棒に良かったので…)、イトーヨーカドー(洋品店から…、薬ヒグチ(大阪の一薬局の息子が…)、ダイエー(神戸の小さな安売り店から…)、ロッテ(チューインガムの内職手作業から…)などなど、不思議な連中もいるから、そう悲観するにも当たらないだろう。

 そういえば、大東急の開祖・五島慶太も、国鉄の一役人に過ぎなかった…。中小商店諸君! 現状ばかりを気にしないで、朗らかに頭を働かせよう。



露店も出る西口駅前と横浜線のホーム

    小さな喫茶店、ママは人気者


 菊名駅の西口正面の本屋さんの裏に、小さな喫茶店がある。ここのママは、たいへんな人気者で、近所界隈の人が集まる。小さな店だから、たちまち満員になるが、そのたびにうまくしたもので、誰かがスーッと出てゆく。こういう雰囲気の店は、昔は方々にあったものだが、今では極めて珍しい。PTA帰りの若い奥さんも気軽に立ち寄れるし、2階は若い学生さんたちのクラブのようになっており、時折狭い階段を津波のように駆け降りてくる。

 この小さな喫茶店の壁のあちこちには、アンティックドールがかけてあり、電話台の下には、ドールの本が重なっている。ふと手にとって読むと、それはアンティックドール展のカタログであった。そして、その値段に一驚した。たとえば、1885年のフランス・ジュモー作「ギターを奏でる娘」1800万円、「花の手入れ」1350万円、一番安いので50万円が1個だけあった。これらは展示会中に売切れてしまうという。

 わたし自身男性であり、孫が3人とも男の子であるため、人形に対する関心が薄かったことに気付き、感電したような衝撃を受けた。
 ママさんは2年ほど前まで、毎年自身で英・仏・独へ行き、1か月位滞在してアンチィックドールを買い求めてきたという。日本で買うことを考えれば、旅費・滞在費はたちまち出てしまうと言っていた。コレクションもかなり進んだので、目下この近くに「人形の館」を建築中であり、5月末には開館できると、張り切っている。

 菊名名物がふえるのを楽しみにしている住人たちが、入れ代わり立ち代わりコーヒーを飲みながら、人形談義に華を咲かせている。しばらく来ないうちに、菊名という街は、夢のあふれる楽しい街になっていた。

   アンティックドール、その世界


 
ものはついで、ママのアンティックドールのお話を少々記してみよう。
 人形の発生の源には、宗教的なものがある。紀元前のエジプトでは、副葬品の中に人形(ひとかた)≠ェあった。ギリシャ、ローマ時代になると、観賞用のものも現れてくる。人形は少女のものであり、結婚の日まで大切に持ち、結婚のとき神にささげる、すなわち神に処女を返還するという意味を持っていた。

 その後、18世紀まではパンドラといって、ファッションドールの性質を帯びており、フランス宮廷の最新のモードを、世界各国の宮廷へもたらす使節となっていた。写真やテレビやファッションショーのない時代、ファッションモデルの役目を果たしていたのである。しかし当時は、人形は王侯貴族の愛玩物であり、子供の手には入らなかったのだ。
19世紀に入ると、革命後のブルジョワの台頭で、民間の窯ができてきた。豪華な衣裳をつけたビスキュードールは、少女たちの熱烈な憧れの品で、ステータスシンボルであった。やがて天才的な人形師、ジュモー、ゴーチェ、ブリユーなどが工房を開き、次第に市場に売り出されるようになっていった。

 その頃には、オートマータ=i自動人形)が最盛期を迎える。字を書く人形、チェスをする人形、宝石の実をついばむ鳥のオルゴールなど、いろいろ出現した。しかし超高価なため、王侯貴族の独占物であった。やがて、少女たちの身近なものとして、首の回る人形、関節を曲げる人形(抱き人形)などが普及し、衣裳の着せ換えなどが行なわれるようになった。
 しかし、全盛だったビスキュードールも、第一次大戦の勃発で、一時中断された。戦後は新素材セルロイドによる大量生産により、徐々に衰退していった。
 そして今日では、アンティックドールとして、古きよき時代の香りを胸いっぱいに秘めて、その碧く澄んだ瞳で私たち現代人を魅了するのである。

 ママの雄弁を要約すると、以上の如くである。菊名名物人形の館≠フ落成を待望しつつ、ペンをおく次第である。


人気のある小さな喫茶店

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