「ダマされたッ、土地を返せ!」
現在の新横浜駅周辺は、かつては俗に「篠原耕地」と呼ばれる、鳥山川に面した低湿地であった。ここは、農地としては恵まれない土地であった。
そこへ、昭和30年代から、宅地化の波が押しよせてくるようになった。そのため、「篠原耕地」で農耕に従事していた地主たちが、あまり収入のない自分たちの農地を、住宅地として高く売りたいとひそかに考えはじめた。
しかし、この地は最寄り駅の菊名から徒歩で30分もかかるうえ、道路も悪く、宅地転用は困難なのであった。
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N社長の話は、自分はK臣の秘書であり、この地区に大工場がくることになったので、大豆戸、篠原、岸根の3つの町を結んで、鳥山川沿いに細長く購入したい。金はM銀行で8億円用意している。細長い土地が要るのは、フォードと提携する某自動車工場の長い組立ラインのためである、というものであった。
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秋祭りの10月17日に、N社長は2台の大型ハイヤーで現れ、八幡神社と菊名天神にそれぞれ1万円の賽銭をあげて、村人たちの度肝を抜いた。土地の古老、Oさんの父上はちょうど八幡神社の代表をしていたので、そのお賽銭にびっくりし、Oさんに 「あのように敬神の志の厚い人なら信用できるだろう」と語った。
それから、村人を乗せた2台のハイヤーは、綱島の高級料亭に入った。そこで、Oさんが、「坪4500円以下では、売りませんよ」というと、N社長は、「5000円で買う」 といったので、また驚いた。しかも、 「いずれ細かい契約の打合わせには、ここにおりますSをうかがわせます。よろしゆうお頼みいたします。仮契約と同時に50パーセント、残金は仮登記とともに支払うということで、いかがでしょうか」といったので、みな賛成した。
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N社長が1万円の賽銭をあげた富士塚の篠原八幡神社
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昭和35年1月下旬に、54名の地主が、37、530坪を坪7000円で契約した。そしてその50パーセントの代金はM銀行振り出しの保証小切手であった。これと交換に、かれらは売買契約書にサインと捺印をとられ、仮登記のための印鑑証明、白紙委任状をとられた。
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Oさんの話では、その後、その白紙委任状にSの筆跡でOさんの全不動産が記入されていることを知り、「俺がお前のために村の人の土地をまとめたのに、その俺にまでこんなことをするのか。許せないッ!」
と日本刀を持ってSの家に乗り込み、
「この恩知らず奴(め)、タタッ切ってやるッ!」
と大喝したら、裏口から逃げ出した。
「その時の日本刀は、あれですよ」
と指差された。見ると応接間の大きな硝子戸棚の中に、錦の袋に包まれた日本刀が、若き日のOさんの活躍の記念のように静かに横たわっていた。
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自分たちから7000円で買った土地を、まもなく新幹線公団に6倍以上に売ったことを知った村人は「ダマされたッ」と怒り出した。あの取引のまとめ役をやった手前、Oさんは黙ってはいられず、秋田から蓑と笠を大量に仕入れ、これを着込んで一団体を作り、地元代議士や弁護士と連絡をとり、国会へ陳情に乗り込んだという。
「『我々がダマされて安く買上げられた土地を返せッ!』と国会のロビーでムシロ旗を振ったものでした……」。
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