編集支援:阿部匡宏
 投稿:益田 勲(横浜市神奈川区神之木町)   編集:岩田忠利      NO.102 2014.7.11 掲載 

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樹木  駅名の由来@ お台場めぐり


 はじめに

 今や「お台場」は、東京の新名所として脚光を浴び、連日若者で賑わっています。このお台場は東京に限ったものではなく、全国各地に1000カ所以上もあります。

 そもそも「お台場」とは、いったい何なのか・・・。台場というのは「砲台場」のことで、大砲を備え付けた場所、施設のことを言います。なぜ、そんな大がかりの武器を設置する必要があったのか・・・。

 時は1853年(嘉永6年)7月、あのペリー司令官率いる黒船が浦賀港に入港、この黒船にショックを受けた幕府は急遽翌8月、江戸の港を守るため品川沖海上に大砲を備えた人工島に台場建設を着手しました。また翌年1月、ペリーの黒船が来航、開国を迫ります。そのとき、幕府の砲台の大砲が放つ弾は黒船の大砲の射程距離よりも短く、届かないというシロモノでした。各地に次々造った台場建設の財政難と安政の大地震が重なり、幕府はペリー艦隊の軍事的威圧の前に屈服、お台場工事を中止し、ついに日米和親条約を結び、鎖国は終わりました。

 ところで「お台場」に、なぜ「お」がつくのか・・・。幕府が造ったものには昔からの慣習で「御」がつき、「御台場」となります。(岩田忠利)


明治初期の神奈川砲台場(中央先端)。海に注ぐ川は滝の川
               
                   提供:横浜開港資料館

 嘉永6年(1853年)黒船の来航で国内警備のため、勝海舟設計による大砲14門を備えた砲台が安政6年に造られました。しかし実戦に使われることもなく明治時代から礼砲用の砲台となっていました。手前の家並みは東海道。
  「とうよこ沿線」編集室発行『わが町の昔と今』「神奈川区編」から


神奈川砲台跡
(横浜市神奈川区星野町)
  
 神奈川砲台は「わが町の昔と今」神奈川区編に載っている有名な所で、JR貨物駅「東高島駅」の敷地がそれです。

 荷役の車両しか入れない駅構内を何食わぬ顔で入り、見渡してみましたが、やはり昔の石積みしか、その痕跡が残っていませんでした。高島貨物線は今、旅客鉄道化する動きもあるようです。「神奈川お台場フォーラム」での横浜開港資料館の西川武臣氏(現在副館長)によると、石垣の隅に刻みが見えます。石工が位置を間違えないように入れたとも言われていますが、よく判別できません。

この砲台で何人かの砲兵が亡くなっている模様です。その方々の鎮魂のための「神奈川砲台招魂碑」が、浦島町の宗興寺の一般のお墓に混じってありました。
 その当時の記述として米刊誌『ザ ファー イースト:1871年(明治4年6月1日)』に、神奈川砲台で爆発事故があり、1名が即死、ほかの1名は重傷のち死亡との記載があります。



神奈川台場跡
2006年1月1日撮影:住宅があり見渡せない






石の刻み
2007年3月3日撮影:隅角部のみのようです




             招魂之碑
2007年4月30日撮影:一般墓石の中、これでは紛れて見分けがつきません

  金田湾砲台跡  (神奈川県三浦市松輪大浦)

 ずいぶんと昔の話ですが、この付近の漁港(金田湾)から釣りに出ており、その行き帰りに円形の砲台跡を見かけた記憶がありました。どうしてもそれを確かめたくて、探しに行くことにしました。

 野良仕事の方に聞いてみると、「最近よくそういう人が来るんだよ」と言われ、「その辺りに変電所があり、あの丘の上に砲台と探照灯の格納庫があるよ」と親切に教えてくれました。

 畑の中の道を歩いていくと、山肌に洞窟の跡があり、これが変電所跡らしい。砲台跡はどうやら高射砲の台座のようです。今では邪魔にされているようで大根やら、菜っ葉のゴミ捨て場になっていました。



砲台跡
2007年5月4日撮影:1基目




換気孔跡
2007年5月4日撮影:砲台下に地下壕がありました


格納庫跡
2007年5月4日撮影:探照灯のものと聞いています




航空写真https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&tab=wl 参照


  富津砲台跡   (千葉県富津市富津岬)

 『富津市史』によると、1884年(明治17年6月)に富津砲台は、元洲砲台として海辺のそばに築かれました。砲台は扁平五角形の堡塁で、周囲は幅2030bの濠がめぐらされ、海水を引き入れて砲台の警備としています。富津・観音崎をむすぶ帝都防衛ラインの一環として築かれたものです。

 鉄仮面のようなものが海岸線を守るトーチカ、ガンダムのような機銃座、煉瓦積の弾薬庫と戦争遺跡につきものの3点セットが揃っていることになります。犬を連れて行ったのですが、ここで放したら密林の中に駆け込んでしばらく姿を見せませんでした。




トーチカ全景
2000年8月8日撮影:東京湾側から




機銃座全景
2000年8月8日撮影:富津岬の樹林の中にあります



弾薬庫内部
2000年8月8日撮影:イギリス積の煉瓦が美しい



  台場小学校(御殿山台場跡地)  東京都品川区東品川1丁目)

 品川の台場小学校は御殿山台場の跡地に建てられた小学校です。この学校の周りを巡ると、御殿山台場の変形五角形の敷地になっていますのでこの台場の敷地の規模が分かります。

 どうせなので小学校の周りを巡ってみることにしました。細い路地を辿って行くと、変なところに「文部省」の石が建てられています。ようやく路地を抜けると、小学校の正門に行き着きます。そこにはミニチュアの品川灯台と台場に使われていた石が積まれていました。



台場小学校入口
2006年5月3日撮影:灯台があります






文部省の石碑
2006年5月3日撮影:路地の一隅にあります

  披露山砲台跡  (神奈川県逗子市小坪披露山)

 鎌倉というか、逗子に近い所にある披露山公園に円形の展望台と池と猿の檻があります。これが高射砲の台座跡だと言われています。監視所もあるはずですが、猿の檻に段差があるのでこれでしょうか。



展望台
2006年5月3日撮影:灯台があります




猿の檻
2006年5月3日撮影:路地の一隅


  猿島砲台跡  (神奈川県横須賀市猿島)

 猿島が帝都防衛ラインの一環であったことは有名です。弾薬庫兼通路のような地下要塞の一部です。

 弾薬庫はたぶん左側の扉で、手前の空間は搬送用の車両なんかが置いてあったと思われます。この近くに高射砲台座跡があります。
 今残っているのはわずかですが、数基の高射砲があったと言われています。しかし、B29(爆撃機)の高度のほうが高く、ほとんどが役に立たなかったそうです。高射砲の写真はこんな感じです。
(http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_4-gun_120_mm_DP_battery_-_Guam.jpg


 高角砲という言い方もありますが、帝国陸軍は高射砲、帝国海軍は高角砲と言っていました。



猿島地図
2006年5月3日撮影:海堡クラブ会誌より




猿島補給地下壕
2006年5月3日撮影:煉瓦造の趣のあるもの










高射砲台座
2006年5月3日撮影:金田湾の砲台とよく似ています






高射砲の例http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_4-gun_120_mm_DP_battery_-_

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