編集支援:阿部匡宏
        編集:岩田忠利          NO.101 2014.7.11 掲載   

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歴史 地名M 生きている沿線の歴史  
多摩川の向こうとこっち

   沿線住民参加のコミュニティー誌『とうよこ沿線』の好評連載“復刻版”
   
掲載記事:「地名 その14 昭和598年7月1日発行本誌No.23 号名「桐」
   執筆:桑原芳哉
(大倉山・学生) 絵:石橋富士子(横浜・イラストレーター) 地図:桑原芳哉


 
「多摩川は沿線のたまりば″だ」と言う人がいる。単なる語呂あわせなのだが、あたっているだけにおもしろい。

 地図を広げると、多摩川に沿って東京側と川崎側に、同じ地名がいくつか見られる。川の両岸に同じ地名なんて、何かあるんじゃないか、と思う人もいるのでは……。

 そこで今回は、多摩川の両岸にみられる地名をとりあげた。



 ここでとりあげる地名が、なぜ多摩川の両岸にみられるのか。答を明かしてしまえば、「多摩川の流路が変わったため」である。

 昔から、川は土地の境界とされることが多かった。今でも多摩川は、東京都と神奈川県の境界となっているが、この多摩川も、古くから境界として用いられてきた。しかし、昔の多摩川は、今よりも蛇行が激しかった。それが、数十回もの氾濫の結果、現在の流路になったわけである。したがって、現在多摩川の両岸に同じ地名がみられるのは、多摩川が大きく蛇行していた当時、とくに江戸期における村の境界の名残なのである。

 このように、数十回もの氾濫によってたびたび流路が変われば、当然のことながら境界争いが生じる。天正17年(1589)の上丸子と沼部との争い、元禄5年(1692)の諏訪河原と瀬田との争い、文政9年(1826)の宮内と等々力との争いなどが記録に残っている。

 多摩川がほぼ現流路になり、東京と神奈川の境界が現在の境界になったのは明治45年(19124月のことであった。これ以来、同じ地名が東京と神奈川に存在するようになったのである。それでは、下流から遡ってみよう。


 

  駅名も両岸にーーー丸子

 

 下流からたどると、まず目につくのは「丸子」である。東京には「下丸子」、川崎には「中丸子」ほか多数ある。駅名でも目蒲線に「下丸子」があり、東横線には「新丸子」と、まぎらわしい。
 「丸子」という地名は、『東鑑』にもみられる古い地名で、古代の部民の一つである「丸子部」に由来する地名と考えられている。「丸子部」の仕事については、椀を作っていたという説と、川岸で渡船をしたという説があり、定かではないが、いずれにしても川と街道との接点にみられたようである。

 沼部」という地名も両岸にみられる。町名としては川崎に「下沼部」があるだけだが、東京では目蒲線に「沼部」駅がある。この地名は、ここが湿地帯であったことを示すものと考えられている。


  両岸とも憩いの場ーーー等々力

 

等々力」という町名は、まさしく両岸に存在する。しかも、東京には等々力渓谷、川崎には等々力緑地があり、ともに住民の憩いの場となっている。

 「等々力」という地名の由来には、かつてこの地(東京側)に「兎々呂(とどろ)城」という城が存在していたためとの説もあるが、一般には滝の音が「とどろく」からとの説がよく知られている。今も東京側の等々力渓谷に二条の滝が落ちているが、とても音が「とどろく」ほどの滝とは思えない。ちなみに、すぐ裏手の等々力不動の山号も「滝轟山(りゅうごうざん)」という。

 川崎側の等々力は、かつては砂利の採取場で、その後は七つの池のある「東横水郷」となっていた。このあたりが砂利や湧水に恵まれるのも当然で、ここはその昔、多摩川の流路だったのである。現在、緑地公園の外をめぐる道路が、ちょうどかつての堤防にあたる。

 等々力のすぐ上流が「野毛」である。東京の「上野毛」「野毛」と川崎の「下野毛」が川をはさんで向かいあっている。「野毛」という地名は、アイヌ語の「ノッケウ(岬・先端)」に由来するとの説がよく知られている。この地、とくに川崎側・下野毛は、かつては多摩川に岬のように突き出た地であったのだろう。


   喜多見からやってきた?ーーー北見方

 

 川崎市高津区、下野毛の西が「北見方」である。この地名は、東京側の少し上流にある「喜多見」という地名からつけられたとの説がある。
 かつて、この地は多摩川の洪水にしばしばみまわれ、荒地となっていた。その荒地を新しく開拓したのが、上流の喜多見の人たちであったので、この地を「きたみかた」と呼ぶようになったというのである。また別の説として、この地を開拓した人が、以前に北見氏に仕えていたためとの説もあるが、『新編武蔵風土記稿』ではこれを「うけがたき説なり」としている。

 さらにさかのぼると、川崎側、二子橋付近にわずかばかり「瀬田」の地名が残されている。「瀬田」 の本家は、もちろん対岸の東京都世田谷区である。川崎の「瀬田」こそ、対岸にとり残された、という感の強い地名である。



   川崎だけなのにーーー二子

 

「二子」という地名も両岸にあるような気がするが、実際は川崎にしかない。東京に「二子玉川園」という遊園地があり、駅があるためである。川崎側の駅は「二子新地」といい、こちらの方が新しい土地のようであるが、「二子」の本家は、川崎である。
 「二子」という地名は、この地の東南に二つの塚が並んでいて、これを「二子塚」とよんだことから起こったものだという。
 もう少し上流に行くと、「宇奈根」という地名が両岸にある。この「うなね」という地名は、地形が屋根のように多摩川に出ていることを表わすものとされている。

                              ☆★☆


 流路の変遷によって、両岸に残された地名・・・ほかの川でも、さがしてみませんか。


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主な参考文献>


「角川日本地名大辞典 13東京都」
『世田谷の河川と用水』 『川崎史話』
『新編武蔵風土記稿』
『川崎地名考』 『大日本地名辞書』
『地名語源辞典』 『古代地名語源辞典』
『玉川沿革誌』

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