ロゴ・配野美矢子/編集支援:阿部匡宏
      NO.75 2014.6.27 掲載 

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樹木  駅名の由来@駅誕生秘話(渋谷〜元住吉)

  掲載記事:昭和56年5月1日発行本誌No5 号名「橘」から

編集:岩田忠利

 今から33年前、昭和56年3月、私たち「とうよこ沿線」スタッフはみんなで手分けして駅名のルーツ探しに街に出ました。そこには、本にも載らない小さな隠れた歴史があることを発見しました。
 みんなが元気溌剌、取材に飛びまわり書きあげた記事。これを33年後の今、Webに載せ、広く多くの皆さまに読んでいただきましょう。



 中目黒〜都立大学担当の江間守一さんと新丸子〜元住吉担当の小林英男さんは、その後不帰の人になってしまいました。他の皆さん、お元気ですか。

 
撮影:八木欣也(上野毛)/川田英明(日吉)


地形や歴史から名づけられた、渋谷

 駅名は地形や歴史から名づけられるのが通常であるが、渋谷駅もその例にもれない。海底であったこの辺りはその後、隆起、浸蝕などの地殻変動を受け、渋谷の辺りを「1川5丘20谷」と呼ぶように渋谷川を中心に5つの台地と多くの谷で起伏のある地形となった。人類が住むのに好条件のこの地は早くからひらけた。
 なぜ渋谷という地名ができたか。これには諸説あるが、平安時代も半ば頃、谷と森であった渋谷近辺は谷森(やもり)から改めて谷盛庄と呼ばれ、渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ッ木、今井、の7つの村からなる谷盛七郷と呼ばれるようになった。

 武蔵の国に勢力を張っていた豪族の一人、河崎土佐守基家は「前九年の役」には源頼義に従って秀れた功があったので谷盛の庄を与えられた。その子、重家も「後三年の役」で功を立てた。源義重に従って京都にのぼったある夜、宮中に忍び込んだ賊を捕えた。その賊の名を渋谷権介盛国といったので堀河天皇が重家を誉め、姓を渋谷と改めさせたという。

 また一説には湿気が多く湧水のたくさん出る谷が多かったことから自らを「渋谷」と名付けた豪族がいたという。

 鎌倉時代に入ると、渋谷氏は今の金王八幡に渋谷城をかまえた。三方を谷で囲まれた攻めにくく守るにかたいこの場所も1521年北条氏に攻められるまで約5百年間続いた。

 また今から6百年ほど前、武蔵の江戸氏の一族の名を書いた文書に今の渋谷付近を塩屋(しばや)と呼んだとの言い伝えもある。 
                      文・佐藤保子(大倉山・主婦)




東急色あふれる渋谷駅前






  


33年前の静かな代官山駅前
 
  ◆代官伊奈氏の所有林があって、代官山

 江戸時代の代官伊奈氏の所有林があった所から名づけられたらしい。
 代官山駅の北側一帯もやはり地形から由来する町名が多く、鉢山町、円山町、神山町、南平台、青葉台、桜丘などは武蔵台地からのびている淀橋台の一連である。
 猿楽町には3世紀頃の大小の古墳がある。一説には源 頼朝が塚の上で猿楽を催し、その時使った道具をそこに埋めたと言われる。
 代官山、渋谷間に並木橋という駅があったが、戟後とりこわされ、今はバス停のみ残っている。                 文・佐藤保子(大倉山・主婦)


 ◆
カミメグロより語呂がいいので、中目黒

 東横線は、目黒川と環状六号線をまたぐ高架の下に駅舎があります。
 町名は上目黒三丁目になり、中目黒という町は、駅からおよそ5百b南へ行った所にあるので、奇異の感じがしますが、この駅名を決めた頃は、現在の中目黒あたりが繁昌しており、上目黒よりも、地名として著名でした。また古い人に聞くと、カミメグロという呼び名よりもナカメグロの方が呼び易かったから、という話もあります。

 もうひとつは、当時の市電が恵比寿から下ってきて、今の環状6号と駒沢通りの交差点付近を中目黒終点と名づけていたので、「中目黒」の方が駅名としては通じ易かったといわれています。

 この辺には、正覚寺という鬼子母神があり、先代萩の政岡の墓がある所から、正覚寺という駅名も候補に上ったこともあったそうですが、寺の駅名ばかりではおかしいというので取り止めになったそうです。

 その頃の中目黒駅界隈は、小工場が目黒川に沿って建ち並んでいました。やがてそれもなくなり、駅としては余り重要な駅ではなかったのですが、地下鉄2号線、つまり日比谷線がドッキングする昭和42年頃からはプラットホームも2本になり、大きな乗り換え駅になって急行も停まるようになりました。               文・江間守一(学芸大学・評論家)

  


駅舎がホーム下にある中目黒駅
          
          


昭和15年開催予定の「東京五輪」のおかげで変わった祐天寺駅周辺


   ◆霊験あらたかで、祐天寺


 駅舎は目黒区五本木一丁目ですが、駅の玄関は祐天寺町で、ここははじめから祐天寺駅です。
 駅から徒歩10分、商店街を抜けると祐天寺という名刹があります。
 この寺は、芝の増上寺の末寺で今から263年前に、増上寺の祐天上人が、弟子の祐海上人につくらせた寺で「はしか」や「百日ぜき」に霊験あらたかな所といわれています。
 東横線が敷かれる時に、ここに駅をつくり、計画的に商店街をつくりました。ですから今でも商店街突き当りが駅になっているわけです。そして以前はその商店街がさながら祐天寺の門前町のような役割りを果していました。ところが、昭和15年に東京オリンピックが開かれることになり、そのために駒沢通りが完成して、お寺と駅は道路でへだてられた形になってしまいました。

 この駅ができる前は、芝や植木が沢山あった農地だったのですが、祐天寺駅のおかげで、すっかり住宅地となり、祐天寺町は商店街として見違えるように発展してしまいました。
 現在の駅は高架になってから横浜銀行が駅舎の反対側に店舗をかまえています。            文・江間守一(学芸大学・評論家)

 
 ◆今は無いのに、学芸大学 
 

  不思議な駅名の代表です。この駅は実際には目黒区鷹番町三丁目にあるのですが、当時、この辺の代表的な地名は碑文谷でしたから、最初は「碑文谷」と命名されました。ちょうど昭和11年、港区青山にあった師範学校(先生を養成する学校)が、世田谷区下馬四丁目に移転してきました。

乗物といったら、徒歩およそ25分の碑文谷駅に出るしかない。そこで、この駅を「青山師範」と改名しました。結局碑文谷という田園的な名より、文教的な駅名がいいということになった。と地元の人はいっています。
 ところが、束京府が都になるに従って、この学校が第一師範になりました。そこで駅名もまた、「第一師範」と変ります。これが昭和18年のこと。

終戦後、学制が改革され、師範は学芸大学に昇格、そこで駅名も「学芸大学」に変りました。昭和40年迄は今のような高架線ではなく、鷹番の町並みの中に駅がありました。ところで不思議なことに、今、学芸大学という大学はありません。かつて第一師範のあった所には附属高校と、新しく出来た図書館短大があるだけです。大学の本体がなくて附属高校、また、ちょっと離れた深沢に附属小学校及び附属中学があるというのも不思議な話ですが、もはや学芸大学という駅名は、大学の有無とは関係なく鷹番町のど真中に定着してしまっています。
 東京という都会の発展の中に残された文化遺産的駅名といえましょう。通称は学大、急行の止まる駅です。   
                 文・江間守一(学芸大学・評論家)



下車すると自転車が目につく学芸大学駅前






駅前広場がなく、すぐ前が大通りの都立大学駅
 

  ◆柿ノ木坂が三転、都立大学

 渋谷から数えて5つ目の駅ですが、目黒区の平町と中根町の境にあります。電車が通り始めた時は「柿ノ木坂駅」といいました。
 駅の直ぐそばを目黒通りが通っており、その向うは、柿之木坂という古来、有名な坂がありました。この道はこの辺から多摩川にかけてのお百姓が野菜を車に積んでくる道だったのですが、急な坂道だったので、近所の子供が押すのを手伝ってくれた。
手伝うのはいいのですが、ついでに荷台の柿を失敬してしまうので、“柿ぬき坂”といわれ、それが今の地名になった、といいます。

ところで、この駅も学大駅と同じで、昭和7年東京府立高等学校が、駅から5分ぐらいの柿ノ木坂に出来ました。これは7年制の高等学校、つまり今の中学と高校が一緒になったようなユニークな学校でしたので、駅名を「府立高等」と改名しました。
 また束京府が都になったのは昭和18年ですが、当然駅名も「都立高校」と変わり、戦後この学校が大学に昇格したので、昭和24年から「都立大学」という現在の駅名に変わりました。

 この駅も昭和30年頃までは、島型のプラットホーム一つの踏切りのある駅でしたが、現在は渋谷から自由が丘までの高架線の下に駅舎があります。都立大学そのものは現在もちろんありますが、付近の都市化のため、郊外に移転する計画も進められていますので、その時は駅名はどうなるでしょうか。地元の人々は、都立大の駅名は残してほしいといっています。  文・江間守一(学芸大学・評論家)

  


自由の丘、自由が丘。明るくモダンな街

昭和3年、東横線開通と同時に、「自由ヶ丘」名づけられたこの駅名は以来一度も改名されていない。それだけこの地に住む人々がこの駅名に誇りと自負心を持っているといえる。
 当時、石井 漠がヨーロッパの自由な空気を胸いっぱいに、ここに石井漠舞踊研究所を設けた。
 田園調布、九品仏をひかえたこの土地には、画家、小説家、芸能人らが多く住んでいた。石井 漠らを中心にこれら文化人達が、この丘陵地帯を、自由主義的な空気のみなぎる土地であれかしと「自由の丘」つまり「自由ヶ丘」と名づけたという。

 モダンで明るく、のぴのぴとした雰囲気が自由が丘にあるのは、こういった伝統を今でも住民が大切に受け継ごうとしているからかもしれない。
 東横線と大井町線のターミナル駅でもある商店街は、一大ショッピングタウン化しているが、上品で高級専門店が多いのが特徴。特に最近は、若い人々が好むファッショナブルな店も多くなった。
 北口駅前のロータリーに立つ自由の女神像は街の象徴でそれを中心に日曜日には歩行者天国となり、若者達と家族連れとが楽しく共存して買い物を楽しんでいるのもこの土地の特色。また、「丸井」「長崎屋」「ピーコック」といった大型店もある。近く、「東急ストアー」も南口側に開店され、北口よりやや出遅れ気味であった南口も、ますます発展することであろう。
 商店街をどの方向に10分も歩くと緑濃い中に大正時代の面影を残す高級住宅街になる。ここをお茶や食事の後の散歩道としている若者達も多い。         文・内野瑠美(緑が丘・主婦)



彫刻家・澤田政広作の像が建つ北口広場



映画やテレビにたびたび登場する田園調布駅


  ◆村名と渋沢さんのカで、田園調布

田園調布に家が建つ≠ニいうギャグで有名な田園調布。そして私の大好きな町。西口の感じがいいですね。第一、駅のまわりに放置自転車がないのがいいです。人間の歩く道を挟めてまで、自転車を置く場所を確保するという考え方、私はきらいです(我が町菊名はひどいもので)。駅の周辺で、その駅の住民の品位がわかるものなのですね。
 さて、駅名のことですが、<田園調布会>のお仕事を昭和9年からやられている山口知明さんのお話によると、東横線開通時から「田園調布」だったそうです。ただ、すでに目蒲線の駅として「調布」と名付けられていました。それが大正15年1月1日に「田園調布」と改称されたのです。「調布」と言うのは、田園調布駅付近から多摩川園駅にかけての一帯が、調布村と言われていたことから付けられました。万葉集の歌に「多摩川にさらす手作り‥…」とあるように、多摩川に布をさらすことから、万葉の時代から地名として定着したものと思われます。
 「田園」を上に付けたのは、ここが、渋沢栄一、渋沢秀雄両氏によって欧米で見られる農村と都会を折衷したような「田園都市」として開発されたからです。つまり田園都市の調布だから田園調布となったわけです。
 その後昭和7年にこの地区が東京市に編入された時、町名改正が行われて駅周辺だけでなく広い範圃をも田園調布と呼ぶことになりました。その結果、今のように一丁目から五丁目まである大きな町となったのです。町の名より駅の名の方が先にできたわけです。

 駅名からわかるように、この町は古い歴史と欧米の新しい思想の両方を兼ね備えた町だと言えます。
                      文・浅野桂子(菊名・学生)


 ◆遊園地がテニスコートに変身、多摩川園

 小学生の頃、家族といっしょに多摩川園の遊園地に行ったことがあります。でも、私にはパイプオルガンのある田園調布カトリック教会のある所、というイメージの方が強いです。
 東横線開通時の駅名は「丸子多摩川」で、昭和6年1月1日に「多摩川園前」と改称されました。多摩川園は、文字どおり、多摩川のほとりに設けられ、大正1412月に開設されました。
 関西の宝塚のイミテーションのようなことで始めたので、宝塚の温泉にならって大浴場も作ったそうです(もちろん、本物の温泉ではなく、沸かしたお風呂です)。

多摩川園開園のねらいは、すでに目蒲線の駅として当時ターミナルだったこの場所に、沿線住民へのサービス施設を作ろうというものでした。ですから、子どもよりむしろ大人向きの娯楽・慰安施設が設けられました。また、ここが、土地が低くて住宅地にするのには不向きだったことも、開園の原因の一つだと思われます。

 昭和10年秋からは、菊人形大会も始まり、多摩川園は繁栄していましたが、他の場所に子どもの遊ぶ所ができるにつれて、次第に商売として成り立たなくなります。そして、まず昭和521216日に駅名が、「多摩川園」に改称され、54年6月3日には、遊園地が閉鎖されてしまいました。その跡には4月25日完成のテニスコートが作られました。

 もはや多摩川園がなくなった今、全く別の駅名にしてもいいのではないかと思います。駅名を募集するなんていうのも、おもしろいのではないでしょうか?          文・浅野桂子(菊名・学生)



多摩川園が閉鎖後も「多摩川園駅」の平成3年



多摩川でのスポーツや遊楽の客が多い新丸子


  ◆駅名が町名となった、新丸子

 東横線が多摩川を渡り最初の駅である。当時の起点は今の渋谷ではなく目黒であった。最初目蒲線ができた時、今の沼部駅は「武蔵丸子」。多摩川園は「丸子多摩川」といった。

 駅ができた時、両側は一面野原で一時草競馬が開催されたほどである。東口より西口が先に開けた。田園調布や日吉駅の北側は欧州風の放射線状に区画されたが、新丸子や元住吉の場合は元の田圃を買収し一人施行の耕地整理の方式で基盤の目に区画して分譲を開始したが、初めのうちは駅前の店舗地が売れ出しただけで、あとはなかなか売れなかった。

 西口開発のさきがけとなったのは、中原高等女学校(今の大西学園)、第一生命のクラブ、日本医大の予科、後に病院も併置された。東口方面は電車開通より少し早く多摩川沿いに丸子園を主軸とする料亭ができ始め、開通と共にますます繁昌し三業地を形成した。

昭和1213年頃には駅前の商店も密集し、住宅地もほぼ一杯となった。丸子橋の開通(昭和10年)、軍需産業の活況もその原因である。

 この駅は通勤通学のほか、多摩川のボートや河川敷でのスポーツ。年1回ではあるが、丸子多摩川の大花火、西口では東横水郷に行く釣人も多かった。昭和18年人口の増大と町内会整備のため駅名が先行して西側が新丸子町、東側は新丸子東一、二、三丁目となり中原街道沿いは丸子通一、二丁目となった。

 大東亜戦争たけなわとなって丸子園は日本電気の寮や社宅となり、2度の空襲により花柳界は壊滅したが、戦後元の中央の大通りを延長して綱島・横浜方面へ通ずる幹線道路とし、この道を挟んで大小料亭、待合などができ、一時は芸妓も100名を超す盛況を示したが、今はパチンコ、バー、キャバレー、飲食店と様相が一変した。  
               文・小林英男(武蔵小杉・郷土史家)



 ◆北陸線に先を越されて、武蔵小杉

 東急東横線と国鉄南武線の連結駅で付近に中原区役所、警察署、郵便局、電話局、消防署、市民館、図書館等があり、金融機関も10店を数え、川崎市の副都心の名に恥じない。
 南武鉄道の開通は登戸までが昭和2年。すでに東横線は地面を
走っていたが、南武線の方が先に認可を得ているというので、東横は大金をかけその上を通り、府中県道の踏切(市の坪、小杉境)もなくなった。

 南武鉄道は初めこの駅を「グラウンド前」と名付けた。近くに第一生命や横浜正金銀行東京支店(東京銀行)等の大グラウンドがあったからで、付近に人家は始どなく第一生命の広い敷地にはばまれ、小杉方面から行くのに誠に不便であった。市ノ坪、今井方面の人々も困っていた。そこで小杉の人たちが約5百平米の敷地を寄付して府中県道の交差点に近く、今の区役所の北側に無人駅ながらも乗降できるような武蔵小杉駅が誕生した。北陸線富山県下に小杉駅があるので上に武蔵≠ェついた。

  昭和19年、南武線国有化と共にこの駅は廃止となり、「グランウド前」がその名を継承した。しかし東横線からみれば、今の駅は「工業都市駅」が約200b北へ移動したと見てよい。市ノ坪・中丸子方面に不二サッシを始め沢山の軍需工場ができ、人口も急増したので新丸子と元住吉との間に川崎市を象徴するような駅名「武蔵小杉」が昭和14年にでき、28年4月に移転し今のように連絡するようになった。広大な敷地を占有し交通を遮断していた第一生命もようやく一部を開放して駅前のバスターミナルや道路新設に協力してくれた。

 駅前植込みの中にある八百八橋の碑も元は第一生命の敷地内である。
駅前交番は昔、小杉・丸子境の水路上にあり、東は新丸子町、西が小杉町一丁目、南武線の南が小杉町三丁目である。 
              文・小林英男(武蔵小杉・郷土史家)




JR南武線と交差する東横線武蔵小杉駅







  


写真は静かな駅前風景ですが、いつもは縁日のような賑わい


  ◆住吉村の名残で、元住吉

 大正14年5月10日に住吉村はなくなり、中原町となり、同15年2月に東横が開通した。
 そこで土地の有志たちが会社に要請して駅名「元住吉」としたに相異ない。
 兵庫県と熊本県に住吉という駅があるので元を冠したが、昔を偲ぶにふさわしい駅名である。駅前の住吉神社は木月の氏神様であるが、元の矢倉様を中心に10社を合祀したもので大阪の住吉神社とは関係ない。

 元住吉駅はちょうど東京・横浜の中間にあり地価も安かったので、東京横浜電鉄会社では変電所や車庫、乗務員合宿所等をここに作り、社員も大勢ここに移り住んだので沿線分譲地としてはここが一番早く充実した。
 その後、法政大学の予科(昭和11年4月開校)が招致され戦後は巨人軍柴田選手などがいて、法政第二高等学校となり、甲子園で優勝したこともある。法政の時計塔は遠くから望見されよい目標となっていたが、周囲にビルが建ち並び近くへ行かないと見えなくなってしまった。

 ここも分譲地に接して井田、今井にかけて耕地整理が施行され、いくつかの新町名ができたが、木月一丁目〜四丁目は町内会の区域の呼称で正規の町名ではない。従って登記や戸籍等には丁目はつかない。

 駅の両側には各種商店が軒を連ね特に北側のメインストリートは井田に続いて長く伸び、臨港バスや市バスも買物の時間帯は運行しない。役所はないが金融機関は5、6店あり商店街も中原区内3駅のうちで一番まとまって繁盛している。
 今井から木月住吉町にかけ渋川岸の桜は区内の名所となっている。電鉄の線路に並行して綱島街道(中原街道は誤り)が走り関東労災病院ができた。東京航空計器鰍フあとは米軍の印刷工場となっていたが、ようやく開放され一部はすでに川崎市中原平和公園(チビッ子が裸足で遊べる冒険広場)となり、県立中原高等学校も昭和57年4月開校の運びとなる。   文・小林英男(武蔵小杉・郷土史家)

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