編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
                              NO.73  2014.6.23 掲載
                                         
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樹木  
百日草の詩(7)
橋本兵曹長のこと・・・その1

                          投稿:栗原茂夫(港北区高田西 。著作「ドキュメント 少年の戦争体験」


  予科練の思い出を語る二人

 去る617日に開催された退職公務員連盟横浜市港北支部の総会・懇親会の席上、予科練(海軍飛行予科練習生)のことが話題になった。
 ことし米寿を迎えられる佐藤雅一郎さんが
70年前の土浦航空隊の思い出を語ったのだった。わたしの左隣におられた織茂 領さん(91)が予科練の第13期生として土浦航空隊で訓練に励んでおられたことは、朝日新聞社発行(昭和199月)「写真報道學鷲」の表紙を飾った写真が紛れもなく織茂先輩であることを以前からよく承知していたわたしだった。「機上から下界を眺めて見たかった」と伺ったことがある。総勢26名の参加者のうち2名が予科練出身者であったとは・・・。

 懇親会の支部長挨拶として、わたしも70年前の617日を語ることにした。参加者の机上には昼食の弁当と飲み物が用意されていた。

 佐藤さん、織茂さんが土浦で訓練に励んでおられた70年前、サイパンに生まれ育ったわたしは9歳・国民学校3年生だった。611日戦禍に見舞われたわが一家は、二つめの洞窟で617日を迎えた。飢えと渇きに苦しむ毎日だった。

 弁当と飲み物が用意され、こうして会食を楽しみながら懇親を深めることができるのは平和な日本に生きているからだ。その幸せをみなさんと共有したい。


  ジャングル学校で勉強?

 昭和19223日アスリート飛行場に小型爆弾が落ちた。数日間黒い煙が上がり続けた。が、わたしたちの生活は至ってのんびりしたものだった。
 3年生になったばかりの4月からアスリートの国民学校に通えなくなった。軍用飛行場が近いため学童たちの安全が考慮されたという人があった。軍が使用するのだという噂も聞いた。2年生を終えるころに、兵隊さんが目立って増えたことは事実だった。

 勉強することを建前に近くのジャングルに通ったが、この間学校生活の思い出はなにも残らなかった。風呂敷に包んだ教科書も果たして開いてみたのかどうか・・・。国語の復刻本でチェックしてみたが、記憶する教材は皆無に近かった。

 


ジャングルの中での授業    イラスト:阿部紀子

  兵隊さんと暮らすことに

 ある日の午後“ジャングル学校”から帰り、縁側に風呂敷包みを投げ出すやいなや、いつものようにホウオウボクにのぼった。わが家を抱え込んでいたサトウキビ畑はサツマイモ畑に変わっていた。軍部の命令で南洋興発は転作を余儀なくされたのだった。制海権を失ったいま、本土からの食料が島に届かなくなっていたのである。「島の食料は自前で調達すべし」ということで、それがサツマイモだった。

 ホウオウボクの燃えるような花々を透かして、サンスベイアの径を年配の将校がわが家に近づいて来るのが見えた。国防色の軍服に軍刀を着帯し、樹上から鳥瞰した限りでも威厳というものを感じさせるものがあった。父を呼びに走った。

翌日、わが家に橋本兵曹長以下12の名の兵隊さんがやってきた。この日から611日まで6人家族の栗原一家と兵たち総勢18名は同じ屋根の下で寝起きすることになった。



元従軍兵の想像画、高射砲陣地










      高射砲陣地の構築

 
彼等は高射砲兵第25連隊として配属され、周辺の民家に分宿することになったのだった。わが家から200メートルほどのあたりのサツマイモ畑の跡に高射砲陣地を構築することが当面の任務だった。
 高射砲というのは、敵航空機の攻撃から自軍を守るための火砲で、アスリート軍用飛行場を護る位置になるため重要な役割が期待されていたのだと思う。

 <米軍の進攻は島伝いに来るだろうから、サイパンに来るのはまだ先のことだ。あるいは敵はサイパンを素通りするかもしれない>というのが軍の判断であり、島の軍民はまだのんびりムードだった。兵たちは朝から夕方まで陣地の構築に従事したのだか、切羽つまった様子はなく作業を楽しんでいるようにも感じられた。

 わたしは、弟と現場に足を運び、着工から完成まで一部始終を見ていた。高射砲24門に加え、機関銃まで据えられたので子どもの目にも盤石なものに映った。心から安心しきっていた。
 家に戻ると、二人は見てきた訓練の様子を真似て遊んだ。
 「高角50度。東経・・・」


  階級の厳しい軍隊

 軍隊生活の特徴のひとつは階級の上下がすべてであることだった。

わが家の庭の幾株かのバナナは階級の上位から私物化された。株ごとに名札がぶら下がっていたが、実はまだ小さく青かった。お汁粉を作った母が12名分を届けると2等兵や1等兵の口に入らないことがあった。それを知った彼女は、密かに彼等の分を別に用意していた。

 橋本兵曹長の階級は士官と下士官の間にあって、少尉候補(見習い将校)の位置づけだった。もちろん12名のトップだ。が、2番手の山本兵曹より謙虚だった。わが家のバナナを私物化することはなかった。


 大好きだった橋本兵曹長

 橋本兵曹長は織茂先輩同様大空を天翔ることを夢見て海軍飛行予科練習生(予科練)として土浦航空隊に入隊したのだそうだ。
 「予科練之碑 碑文」に次のような文言が並んでいる。

<予科練とは海軍飛行予科練習生即ち海軍少年航空兵の称である。俊秀なる大空の戦士は英才の早期教育に俟つとの観点に立ちこの制度が創設された。時に昭和五年六月、所は横須賀海軍航空隊内であったが昭和十四年三月ここ霞ヶ浦の湖畔に移った。>

「うちの兵隊さんのなかで僕は橋本兵曹長が一番好きだ。僕もいまにあんな兵隊さんになるんだ」

勤務を終えた彼の側を離れないわたしだった。子ども特有の直感によって、わたしは彼の人柄を好いていた。予科練の体験談は興味深かった。
 「内地には霞ヶ浦といって、この島くらいの広さがあるんだよ」
 湖を知らないわたしには雲をつかむような話だった。それだけに憧れと想像は際限なく拡がるのだった。



          「予科練の碑」

 霞ヶ浦湖畔の土浦海軍航空隊(予科練)跡地に建つ。
 碑文に次のことも刻まれている。
 「雄翔園にある予科練の碑です。予科練出身者が全予科練戦没者の遺徳を顕彰する為、昭和41527日に建立。この中に予科練出身全戦没者 一万八千5百柱の霊璽簿が奉安されています。」
予科練を巣立った若人たちは、敵の我が本土に迫るや、全員特別攻撃隊員となって一機一艦必殺の体当たりを決行し、名をも命をも惜しまず何のためらいもなくただ救国の一念に献身し未曾有の国難に殉じて実に卒業生の八割が散華したのである。」


  橋本兵曹長の日本刀

 橋本兵曹長は、家伝の日本刀を所有していて、朝夕太刀を振るって一汗かくことを日課としていた。ある日のこと、抜刀しようとして左脇腹を数センチ切った。看護兵が直ちに処置した。わたしは、固唾を飲んで一部始終を見守っていた。

 そのことがあってから、わたしは彼の日本刀に異常なほどの興味を抱くようになった。日本刀は床の間の隅に立てかけてあった。兵隊さんたち全員が高射砲陣地に出払ったあと両親も畑に出かけた。
 「今だ」と思った。弟の利夫と二人で日本刀を床の間に横たえると柄を握って数センチほどの刀身を見た。怖くなってすぐ元に戻したが、いけないことをしたという後味の悪さはぬぐいきれなかった。刀の持ち主に気づかれたかどうか、お咎めはなかった。両親はもちろん知るはずもなかった。

  少ない日本の航空機

 空を飛びたかった橋本兵曹長は、いま高射砲陣地の構築とその訓練のために汗を流していた。予科練出身者の数に比べ、圧倒的に戦闘機の数が少なかったのである。

 ある晴れた日、びっくりするほど日本の戦闘機がわが家の上空を飛び、タッポウチョの山頂の向こうへ消えて行くのを見た。

 わたしは精一杯の大声で「バンザイ バンザイ」を叫んでいた。見送った飛行機群は日本の勝利を確信させるに十分な風景だったのだった。が、足りない戦闘機を目下交戦状態にあるニューギニア戦線の応援としてアスリート飛行場を飛び立ったのだということを後年戦記で知った。その分サイバン島の防備が手薄になっていたのだった。

 高射砲陣地にあって作業中の橋本兵曹長は、タッポウチョを越えて消え去る飛行機群をどんな思いで見送ったのだろうか。

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