ロゴ:配野美矢子/編集支援:阿部匡宏
  NO.77 2014.6.28 掲載 

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樹木
百日草の詩(10)
橋本兵曹長のこと・・・
その2


               投稿:栗原茂夫(港北区高田西 。著作「ドキュメント 少年の戦争体験」)    編集:岩田忠利



 
島の兵隊さんが増えた

  アスリート飛行場に小型爆弾が落とされ、ソウシジュ林越しに見た黒煙の記憶は今でも忘れずにいる。223日のことであった。2学年を終わろうとしていたときで、アスリート国民学校での授業は平常通り行われていた。登下校で出会う兵隊さんが目立って増えた。「父ちゃん、学校の近くに兵隊さんが増えたね・・・急に」
 戦時の子どもとして兵の増強を報告できることが誇らしかった。

 わが家に寄宿することになった兵隊12名をはじめ、高射砲兵第25連隊1000名強がサイパンに到着したのは319日だった。
 彼らの任務は、アスリート飛行場を敵航空機から護る高射砲陣地を構築することだった。早朝現場に出て夕刻に帰ってくる毎日だった。が、工期半ばの418日早朝、米軍爆撃機B24が8機来襲し高度5000メートルから数発の爆弾を投下した。標的と目された飛行場に特段の被害はなく、滑走路の一部が要補修となった程度で済んだ。

 南洋興発関係の男性は軍属として滑走路補修のために徴用された。父・修蔵は軍政府の施策に従い、サトウキビ栽培からサツマイモ畑の経営に転換したばかりだった。が、畑の様子を気にしながら滑走路補修のためにアスリート飛行場に出かけていった。


 
本格的な空襲はじまる

 昭和19(1944)6月11日。

 この日は日曜日だった。ジャングル学校は休みだった。家族6人と12名の兵隊たちはいつもと変わらず気持ちの良い朝を迎えた。綿をちぎったような白い雲が島の最高峰タッポーチョの山頂のあたりをゆっくり流れていた。

 70年前のこの日の風景をなぜか、はっきり記憶している。
  兵たちは庭の思い思いの場所に座を占めて、休日を楽しんでいるらしかった。

♪ 海の男の艦隊勤務   月月火水木金金

と軍歌にあるように、艦隊勤務に日曜日はない海軍であったが、地上勤務の今はのんびり休日を満喫することが許されていたのだった。
 昼近くの太陽がギラギラと照りつけ空は抜けるように青かった。ホウオウボクの花々は鮮やかな朱に燃えていた。

♪ 若い血潮の「予科練」の 七つ釦(ボタン)は 桜に錨(いかり)

 今日も飛ぶ飛ぶ 霞が浦にゃ でかい希望の  雲が湧く

橋本兵曹長の『荒鷲の歌』だ。

 彼は、そうめんチャンブルーの味付けに熱中していた。歌の味付けも上々だった。わが家の竃(かまど)は立ったまま調理するように、高い位置に竃が据えられていた。そのせいか、体全体で調理を楽しんでいるように見受けられた。

近所に遊び友達のいないわたしは、自然に橋本兵曹長のそばにいることになった。その日は母もいっしょだった。
「うちの兵隊さんのなかで僕は橋本兵曹長がいちばん好きだ。僕もいまにあんな兵隊さんになるんだ」
 国語の読本に出てくる無性格なヘイタイサンではなく、人柄を感じさせる魅力を感じていた。

 彼が語る予科練の体験談は興味深かった 。
 「内地には霞ヶ浦といって、この島くらいの広さの湖があるんだよ」
 湖を見たことのないわたしには雲をつかむような話だった。それだけに想像の翼がますます広がるのだった。

 橋本兵曹長を慕いながらも、わたしは彼の経歴(戦歴を含む)や係累について何一つ知らないのだった。

 突然、招集を伝える伝令が駆け込んできた。一瞬緊張が走った。
 「アメリカの艦隊が接近中らしいです」
 橋本兵曹長は、小声で母に耳打ちすると火の始末を終え身支度を調えた。いざというときの兵隊さんたちの行動は、実に素早かった。たちまちアスリート飛行場の護りを任務とする頼もしい兵に立ち戻ったのだった。

 構築されたばかりの高射砲陣地に向かって走る12名の背中を見送ったあと、一家はホウオウボクの繁りが陰を落とす防空壕に身を潜めた。

 屋根の上を高く飛ぶ1機のグラマンが急降下して視界から消えた。波状攻撃の先触れだった。



戦時下の少年たち憧れの予科練、青年兵たち

象徴の七つボタンが輝いています






 橋本兵曹長の予科練時代を彷彿させる青年兵

色白で優しそうな予科練兵、正式名称は「霞ヶ浦海軍航空隊員」



 
米軍機の想像を絶するサイパン爆撃

 このときサイパン島の飛行場には32機しか飛行機がなく、その半数は修理機だったという。午後1時米軍機190機がアスリート飛行場とタナバク港に襲いかかり集中的な攻撃に曝された。

「アスリート飛行場に駐機中の飛行機9機炎上、高射砲25連隊の24門中の約半数が使用不能・・・」と、ある戦記にある。また「アスリート飛行場は戦略上から真っ先に敵の攻撃目標になった」とあるので高射砲陣地あたりの戦闘の激しかったことは想像に難くない。



5時間に480機がサイパン島を襲った米軍機





爆撃で炎上する建物



 空襲警報解除となり、やっと外の空気を吸うことができた。心からホッとした。昼前にはあれほど青かった空が、ソウシジュ林の向こうで黄色く染まっていた。夕闇が濃くなったころ兵隊さんが戻ってきた。

 彼らの語るところによれば、敵の攻撃の激しさは想像を絶するものだったらしい。グラマン機やロッキード機が編隊で波状攻撃をしかけてくる。その都度応射するのだが、また次々とやってくる。急降下爆撃や機銃掃射の後は悠々と去っていくというのだ。撃墜どころではなかったらしい。

 やぐら状の戦闘指揮所で指揮中の連隊長の首が爆風で飛ばされたという話には驚かされた。いつかサンスベリアの径をやってきた将校かもしれないと思うと痛ましく思えた。

 高射砲兵第25連隊の連隊長として新穂実徳中佐の名が残っているのだが、首を飛ばされ前任者か、後任の指揮者か判然としない。

 この夜の兵のなかに橋本兵曹長の姿はなかったような気がする。記憶にないのだ。連隊長の戦死という混乱のなかで少尉候補の彼が本部にとどまった可能性はある。


 「悲劇のサイパン」『三ケ野大典著』によれば翌12日も夜明けとともに米軍機はマリアナ各島を襲い、サイパンには5時間で、延べ480機がアスリート飛行場とタナバク港を中心に銃爆撃を加えた」とある。出撃する友軍機はなく高射砲は沈黙したままだった。

 母が用意してくれた白米のご飯が美味しかった。警報解除になっても不安が去ったわけではなかった。が、とにかく屋根の下で夜の眠りにつくことができただけでも有り難かった。

 2日目の夜、軍から言われた。

「自分たちは明朝4時に配置につきます。ここはもう危険です。皆さんは海岸近くの洞窟に避難してください」


  大火傷の森2等兵

 13日の払暁、洞窟に移った。熱帯樹が鬱蒼と茂るジャングルのなかで硬い岩盤に包まれた洞窟に戦闘の気配はまったく伝わってこなかった。壕の内部は時間がゆっくりと流れた。次第に息苦しさを覚え始めた。暗さに慣れてくると内部の様子が次第に見えてくるようになった。

 6月14日夕、チンク油を全身に塗られた兵隊が1人洞窟の入口に現れた。真っ白なミイラ人間のような姿は異様だった。驚いたことに、「うちの兵隊さん」の森2等兵だった。
 「高射砲陣地は艦砲射撃と重爆撃で壊滅状態です。お世話になった12名のなかには戦死した者もだいぶいます」

 彼は北支の戦闘で兵役義務を果たし、退役後は文字通り一家の柱として家業である農耕に励んでいた。わが軍の戦況が思わしくないいま、予備役招集として今度は南洋の戦場へと送られてきたのだった。兵としては歳をとりすぎ、軍隊の中でさしていいこともなく 、今こんな目に遭わなければならないのを気の毒に思った。

 母の手になる汁粉などを兵隊たちにお裾分けすることがあったが、下士官たちがほとんど平らげてしまって、2等兵や新兵の口には入らなかった。母が気の毒がって彼らにこっそり届けていた。今生の別れのつもりであろうか。

 森2等兵は母から受けた好意に対して謝辞を述べるために全身大やけどの足を運んだのだった。



チンク油を真っ白に塗った兵士が洞窟の入口に・・・


  橋本兵曹長、出現

 しばらくすると凛々しく気丈な兵が入口で佇立しているのが見えた。
 「栗原さん、長いことお世話になりましたぁ〜。自分をはじめ無傷な兵は、これからアグイガン方面に向かいマス。敵の上陸を阻止するためでありマス。敵は恐らく明日あたり西海岸からの上陸を試みるものと思われマス。一部はアスリート飛行場をめざすでしょう。そうなればここは危険でありマス。今夜中に東海岸沿いにタッポーチョ方面に向かって避難してくだサイ!」

 入口あたりが暗く、姿からは分からなかった。が、声で分かった。なんと橋本兵曹長だったのだ。ずいぶん長いこと会わなかったような気がした。予科練の話を語ってくれた大好きなヘイタイサンではなく鬼気迫る一軍人となった直立不動の橋本兵曹長がそこにいた。好奇心のあまり利夫と二人で手を触れてしまった愛用の日本刀がしっかり握られていた。

 固唾をのんで遠くから彼を凝視するしかない、わたしだった。


凛々しい橋本兵曹長の雄姿

知的な風貌と長身で引き締まった体躯は凛々しく、頼もしき若武者の印象。反面人間的な暖かみが感じられた



 米軍の上陸を阻止すべくアグイガンに向かう彼の決意を耳にし 、あくまで民間人を守り抜こうとの古武士らしい真情に触れ、子どもながらに感動を覚えたのだった。

 「生きていたら、またどこかで会いましょう!」
その時の彼の言葉がいまでも耳に残っているようなきがしてならない。

 前掲書によれがアギガン岬の独立混成47旅団砲兵隊はアギンガン岬において「上陸する米軍を側面から猛射し、前進を阻止していた」とある。橋本兵曹長のその後の消息を知るよしもないが、おそらくは民間人を北に避難させるべく西海岸南端の凄まじい戦闘の渦のなかにあったのではないだろうか。

 高射砲兵25連隊1000名強のうち生還者はわずか40名にすぎなかったと聞く。橋本兵曹長はおそらく島の土になってしまったに違いない。大空を飛びたくて予科練に入隊した彼にとっては、さぞ無念な最後だったろうと思う。

 「生きていたら、また会いましょう!」

 洞窟のなかで耳にしたこの言葉が最後の言葉になってしまった。

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