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創業118年、紺屋の4代目 |
清水源助さん(川崎市高津区千年) |
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120年前の藍甕をかきまわす清水さん
横顔
現住所に生まれ育ち、75歳。小学生の頃から家業を手伝い、3代目の父に仕事を仕込まれ、宮中に女官の娘であった母が躾を厳しく。昭和21年3代目の死で当主に。
3代目の口癖は「仕事を通して社会へ奉仕」であっただけに本業の傍ら、民生委員・町内会・老人会・染物組合などの役員を務め、地域に尽くす。川崎市の姉妹都市ベルチモア市の名誉市民。
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染め上げた布を清水で洗って天日干しする清水さん |
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川崎市内最後の染色業、紺屋
慶應元年創業。戦前の川崎市には染色業の「紺屋」は12軒でした。いずれもクリーニング業へ転職、昭和58年の取材時はここ「千年の紺屋」だけ。“絵羽(えば)”という下絵や文字を書く型紙作り職人、モチ米からつくる糊作りの職人、どちらも居なくなり、廃業に。しかし、清水さんは両方の技術を持っていたのが強みでここまで続く。
ごっつい指先、その爪はどれも薄黒く、厚く、短い。昔の洗剤は品質が悪く、まず爪をやられてしまうのだそうです。「一生、“色”で苦労してますよ」。仕事の厳しさをこう冗談言って笑い飛ばす75歳でした。
文・岩田忠利 撮影・川田英明
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刀に魅せられて |
柳川清次さん(中原区上丸子八幡町) |
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今の日本刀は美術品
鞘から抜かれた刀。刃文と呼ばれる波状の模様が浮き上がって見える。意外と重い。鞘を握る手にも力がはいる。
「だいたい、1`ぐらいですね。武器っていうのは、鉄砲などもみんな1`ぐらいですよ」
柳川清次さん。34歳。数少ない日本刀の研師の一人です。
「川崎にはもう一人いますよ。けっこう仕事はありますよ。愛好家の人も多くいますし、神社や博物館に保存させている刀を研ぐことも多いですよ」
刀といえば、昔は武器、今は美術品というイメージ。柳川さんは刀を抜いてこちらに手渡しました。少し緊張する。
「どうです。きれいでしょう。刀っていうものは、美しいものなのです。振り回さなければ危険じゃないし、高価なものでも手に取って見るだけならいくらもかかりません。でも、この美しさを守り続けるのは、大変ですよ」
日本刀の研ぎ師は、刀がよく切れるようにするとともに、刀の美しさを守らなければならない。ただ切れるようにするだけなら、それは包丁かハサミの研ぎ屋さんの仕事です。
この仕事をしていて、いろいろな人に会えるのが何より楽しい、と刀とは好対照の丸顔の柳川さん、終始笑顔でした。
文・桑原芳哉 撮影・小椋 隆
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「刀っていうのは、実用性の中に美しさがあるんですよ」と刀と向き合う柳川さん
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美人揃いのチンドン一家 |
日の丸宣伝社(中原区中丸子) |
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東京近辺で30人ほど
(昭和58年時)
「今でも子供たちは後を付いてきますよ。車が危ないから、迷子になるから、早くおうちに帰りなさいと言って帰します」とリーダー役のサトちゃん。
体の具合が悪くても太鼓をたたけば元気になってしまう最年長の和代さん。
「この仕事をしていた人は、今ではすっかり年をとってしまって、特に楽器のできる人がこの1、2年めっきり少なくなってしまいました」「お金だけじゃない。好きだからやっているのです。体の動かなくなるまで続けます」と皆さん。
「役者もチンドン屋も同じなんですよ。人を集めて踊りを踊って芸をする。昔は店先で漫才なんかもやっていました。ちょっとした劇団ですよ」とサトちゃん。
チンドン屋さんは、家を出るときからあの格好でやってくるの。「人に見られるのが商売、見られて恥ずかしいのは一人前じゃない」とおっしゃるサトちゃん。でも彼女も最初はやはり恥ずかしかったそうです。
最近はすっかり見かけることの少なくなったこの仕事、東京近辺ではもう30人ほどになってしまったそうです。(昭和58年当時の話)
3人の横顔
サトちゃん、年齢37.38歳くらい。お嫁にきたところがチンドン屋の親方の家。以来20年、以前は舞台の子役だったそうです。
和代さん、この道30年の大ベテランです。
まゆみさん、まだ20歳代の最年少、始めて3〜4年の美人です。
文・写真 出口道和
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きょうも熱演の美女3人、街を練り歩く
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物語る作業台箒作り46年 |
朝比奈 保さん(中原区木月) |
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箒ひと筋! これが極楽という朝比奈さん |
文・天笠伝次郎 撮影・森邦夫 |
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川崎市内で唯一の箒作り職人
箒作りというのは、昔から同業者の少ない仕事で、戦前は大森と蒲田に1軒ずつ。戦後今の所へ移ってから、何でも横浜の方に4、5軒あると聞いたが、今でもやってるかどうか。
「川崎市でも、わしが止めると誰もいなくなってしまうわけだよ」と、朝比奈さんは寂しく笑う。
大森の親方の所で、年季奉公は10年。月の小遣いは2円。
「それでもずいぶん遣いでがあった。年が明けて月5円ずつもらえるようになった時は、それはもう嬉しかったもんだよ」と、懐かしく追想して語られる。
柄の長い箒が東形(あずまがた)といって、1本が6000円から6500円。以下4段階の各種に分かれ、段々に安くなっていくが、いずれもさすがに年季の入った、見事な出来栄え。まさに芸術品で、飾って置きたいくらい。主に日吉や綱島、それに南加瀬、北加瀬の人たちが、わざわざ買いに来てくれる由。
棒を輪切りにした作業台は三十余年は経ったものと言い、手先の方は擦り減ってしまって窪みが幾つか。締めるために叩く樫の槌の両端も、45度くらいの斜かいに。すべてに朝比奈さんの生きた歴史が刻まれている。
酒はやらない。仕事の区切りの煙草の一服が何よりの楽しみとか。
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竹籠づくり60年 |
伊藤政吉さん(神奈川区広台太田町) |
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プラスチック容器全盛の世に精を出す
科学の進歩により、すべての容器がプラスチックなどの新素材に変わった。とくに自然の木や竹、紙などでつくった入れ物は、ほとんど見られなくなった。
「農家なんかから少しは仕事がくるからね。内職っていうところだけど、道楽が半分、かな」
そう話しながらも、伊藤さんは七輪の火で竹をあぶり、折り曲げています。仕事の手を休めることはない。
孟宗竹を割り、薄くしたものが材料となる。製品はすべて実用品で、その昔、農家や牧場で使った背負い籠、荷物や小物運びの御用籠、清掃や土砂作業に使う竹箕(たけみ)、運動会での紅白玉入れの籠、くす玉などです。
「ひところは若い人を5,6人も使っていたこともあったけどね。そのころは仕事もあったから。でも今は、やる人なんかいないよ」
若い人を使っていたころは、表通りに面して作業所を開いていた。けれども息子さんが中華料理店(その名も「竹屋」)を開いてからは、伊藤さんの仕事場はお店の裏に移ってしまった。
先代の業を継ぎ、60年間籠づくりひとすじで生きてきた伊藤さん。後継者がいないことなど気にすることもなく、今日も籠づくりに励む、職人気質の幸せな方である。
文・山下二三雄/撮影・小椋隆
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「籠づくりは、わしの楽しみだね」と伊藤さん
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約300年前から製氷業など
連綿と続く企業 |
池田乳業(港北区綱島東) |
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昭和14年8月、綱島駅東口の綱島街道端にあった小泉氷店「池田屋」
昭和8年菊名から綱島に移転し、氷とアイスクリームの製造販売店を開業。当時の沿線にはアイスクリームを売っている店は殆どありませんでした
提供:池田乳業(株)(港北区綱島東)
氷需要は横浜港入港の外国船
東横沿線の港北区内には今でも“氷場”と呼ぶ天然氷を作っていた往時の場所が地名として各地に残っています。
港北地域に氷場と製氷業者が多かった理由は氷需要とその供給に応じられる地理的条件に恵まれていたことが考えられます。
明治初期、横浜港に入港する外国船が盛んに氷を使うことに先人らが着目しました。氷は重い。運搬するには港に近い地域がよい。それがズバリ当たったのです。
天然氷を作るには厳寒の冬場の日陰ときれいな湧水が出る場所があることが絶対条件。起伏に富む港北区は、この条件を満たす最適地でした。
出荷は魚類貯蔵や病院などの需要とあいまって年々増加。冬の厳寒期に作った氷は所定の大きさに切ってオガクズの中に入れて土蔵で保管し夏、出荷します。氷需要の最盛期でした。
しかし、やがて隆盛だった天然製氷も機械化による人工製氷と冷蔵庫の普及によって昭和初期から次第に需要が減り、東横沿線の氷場はついに消えていったのです。
文・岩田忠利
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昭和初期、菊名4丁目にあった池田屋の氷倉と従業員
江戸時代の享保年間に現在の菊名駅東口で農業の傍ら製氷業を創業。約300年前から続く港北区内最古の商店です。
前列左端が天然製氷業2代目店主・小泉大助さん、前列右から4番目の人が3代目の小泉久一さん
提供:池田乳業(株)(港北区綱島東)
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妙蓮寺で85年続く精肉店 |
金子商店(港北区仲手原) |
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平成6年の金子商店
中央が79歳の金子定吉さん
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区内最古(昭和4年創業)の精肉店「金子商店」、昭和23年当時の店頭
昭和13年にタイル張りのまな板がある店頭に改装しハイカラな店と評判でした。右端が15歳のとき姉リンさん(22歳)と二人で開業した金子定吉さん(右端) 提供:金子定吉さん(港北仲手原2丁目) |
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私は菊名の農家の次男坊。肉を扱うのは全くの素人でしたが「将来は肉の時代」と見込み、姉と二人で妙蓮寺の現在地で開業しました。
菊名池の端に住宅が5〜6軒あった程度で周囲は一面の農地と農家だけでした。それでも開店日は驚くほど売れて25円……。米1升15銭、盛りソバ6銭の時代でした。
それもつかの間、売上がガクーンと落ちて家賃も払えなくなるほどに……。そこで考えましたよ。「どんな人が肉を食べるのか」とね。
綱島や鶴見の駒岡あたりまで経済的に余裕のあるお寺の住職さんやお医者さんを毎日回ってご用聞きしたのですよ。「動物の肉を食うなんて……」と肉食にどこも抵抗が強くてねぇ〜、即断即決なんて全然無いんですよ。それでも挫けず、5年ほど続けました。そのうちにやっと上向いてきました。
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自慢めいた話で心苦しいけど、私は昭和10年に運転免許証を取ってダットサンを乗り回せる身になったのですよ。
当時それは珍しいことか、といえば、そう、当時の大綱村では現在の大正家具(取材時、大綱橋際にあった)の前にある綱島の桐屋にハーレイのサイドカーがあったくらいで、自動車を持っている人は他にいませんでしたね。
終戦直後は東横沿線に肉屋が無くてね、田園調布や自由が丘あたりからも皆さんが買いに来てくださいました。
今は人口も増え、食生活もガラッと変わって港北区内には組合加入の精肉小売業者が55店(平成6年時)もある時代になりました。これほど日本人の食生活が洋風化するとは、夢にも思いませんでしたねぇ〜。
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