編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
      NO.71  2014.6.20 掲載
                                         
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樹木

 多摩川の渡し


文:岩田忠利

 
今から34年前、東京・川崎・横浜の東横沿線の住民の皆さまに呼びかけ、沿線各地から集まった同志と夜を徹して取材・編集・広告取りに奔走、沿線雑誌『とうよこ沿線』の創刊号が世に出ました。時に昭和55年(1980)7月、七夕の日でした。
 以来、平成16年(2008)7月発行の74号までの28年間、じつに多くの老若男女の皆さまが中核になり、日吉の編集室に昼夜を問わず日参され雑誌作りと配本などの活動に邁進されました。

 高度情報化時代の21世紀を迎え、当編集室は2000年(平成12年)、地域広報活動を“紙媒体”から“Web媒体”へと転向し、今日に至っています。
 
 ここに紹介する「多摩川の渡し」は、文が世田谷区等々力の旧家出身で郷土史研究家・豊田眞佐男さん、イラストが中原区井田中ノ町の石野英夫さん、ご両人の合作ですが、いずれも故人に。昭和62年7月発行の第39号「創刊7周年記念号」の連載「沿線風土記」第13回「多摩川の渡し」を転載し、往時のご活躍を偲びたいと思います。      

 


                   明治時代の多摩川・六郷の渡し

 細長い舟の前後に3人の船頭、舟に人力車を乗せています。左手の川崎側の情景はさまざまで、興味深い。

 ★明治時代にカラー写真は無いはず、と思われるのはごもっとも……。この写真は「横浜写真」といわれるもので、白黒写真に画家が絵筆で着色した写真です。
  提供:岩田忠利


 沿線風土記 第13回

      多摩川の渡し


                           豊田眞佐男(郷土史家 世田谷区等々力)


なぜ家康は橋を架けさせなかったか


 江戸時代、幕府は軍事上、大きな川に橋を架けることを禁止しました。その最も良い例が静岡県の大井川でした。このために庶民は、交通上どんなに迷惑をうけたか想像を超えるものがあります。

 日本歴史上、橋についての作戦思想が最も対照的な人物は源 頼朝と徳川家康でした。
 平安時代末期の治承4年(1180)頼朝は江戸太郎重長を武蔵の国の大福長者と敬称し、武蔵の国総検校職(6町歩)に任命、平家追討のため多摩川に橋を架けることと兵員渡河の軍船を数多く集めるように命じました。
 その名残りが鎌倉道(上・中・下の3道)で、うち中道は世田谷〜二子玉川を通る道であり、今も鎌倉橋などその名が残っています。つまり鎌倉武士は、戦えば必ず勝つという自信があったので敵に攻められた場合に橋がない方が良いというような憶病を武士の恥としていました。
 いっぽう家康は、橋というものを常に敵に攻撃された時のことだけを考えて橋を架けさせなかった川もあるのです。橋を戦略的に考えたとき、家康は決して名将ではなかったといえましょう。

 その家康が桃山時代の慶長5年(1600年)6月、酒井左衛門尉を普請奉行として六郷大橋の架橋を命じました。長さ250b、幅約10bという大工事で千住大橋、両国橋と並んで江戸三大橋″の一つとなります。その後、幕府の手で再三修理や架け替えが行われましたが、江戸時代の元禄元年(1688年)7月、洪水でこの橋は流されてしまったのです。

   多摩川の渡船場16カ所


 流失の六郷大橋に代わって登場したのが渡し舟″いわゆる「六郷の渡し」です。明治7年(1874)1月、六郷八幡塚村の名主・鈴木左内が左内橋″という木橋を架けるまでの間、じつに186年間も、六郷の渡し(写真上)は庶民に利用されてきたのです。この左内橋こそ現在の六郷橋の前身といえましょう。

 世田谷区内の渡し舟は、元禄時代に入って許可になります。区内でいちばん古い記録をもつ野毛の文献によると、「元禄九年(1696年)、飯田弥五衛門、野添市右衛門は下野毛村の舟代金五両を五ケ年賦にて拝借」「享保五年(1720年)、下野毛村舟新造に付き、金十五両南無利息十年賦にて拝借」、とあります。

 安政7年(1860年)2月、幕府は横浜開港にともない河川の渡船場及び海岸見張番所の警戒を厳重にする方針をとり、村の役人に触(ふ)れを出しています。

 そのとき多摩川の船場として、つぎの16カ所を挙げています。
 @六郷 A小向 B古市場 C上平間 D上丸子 E小杉  F等々力 G下野毛 H二子 I宇奈根 J宿河原 K菅 L矢之口 M押立 N一之宮 O日野

 これらのうち「公ヨリ命ゼラレン」渡し、すなわち官許の渡船場だったのは、最下流の六郷の渡し≠ニ最上流の日野の渡し″の2カ所だけで、他はすべて村営の渡しでした。


 多摩川はたびたびの洪水によりその流路を変えました。そのたびに田畑は両側に分断され、農民たちは耕作のために対岸の神奈川県側、現川崎市へ行かなければなりません。耕作地へ通うために生まれた「作場渡し(さくばわたし)」が、つまり村営の渡し船場の始まりだったのです。

 等々力の百姓豊田紋兵衛は明治の前半期克明な村の出納日記をつけていましたが、渡船についてつぎの記録が見られます。
 「明治八年十一月一日 一金四拾壱銭六厘三毛 向河原舟人給料。明治九年五月廿八日 一金三拾八銭四厘九毛 向河原舟人給料」

上の向河原という地名ほ、川崎市にも等々力の飛地があったために世田谷区等々力の農民が対岸を向河原″と呼んだ別称でした。

そして舟人たちの勤務時間は明六ツ(あけむつ 午前6時)から暮六ツ(くれむつ 午後6時)までが決まりで、ただ丸子の渡しのように船頭が交代で船頭小屋に寝泊まりしていて一晩中渡れる所もありました。

      舟賃と舟大工

 当時村営の渡船場の舟賃がいくらであったか……。これについては明治13年の丸子の渡しの記録を見ましょう。

 「男女共一人 金五厘。牛馬−疋 八厘(但し口取を除く)。人力車一輪 七厘(但し空車)。大車一銭五厘(但し挽夫を除く)。小車 八厘(但し挽夫を除く)。馬車 六銭。諸荷物二人持 六銭」 
 かけ蕎麦が一杯8厘、銭湯が1銭2厘、大工の手間賃が150銭の時代のことです。
 大正時代の丸子の渡しの相場は、1人片道2銭、自転車3銭、人力車15銭でした。

 渡し舟を造るためには当然、舟大工という特殊な技術者が必要です。世田谷区内ではなぜか宇奈根という地域が舟大工の発祥地でありメッカでありました。その宇奈根出身の舟大工たちが各地に転在して渡し舟を造っていたのです。吉沢の川辺滝次郎さんは世田谷区最後の舟大工です。

 多摩川の渡しが完全に消滅したのは、それほど昔のことではありません。丸子の渡しは、大正元年に東京と神奈川との境界が決まり、改めて東京府より野村次郎左衛門・大貫重次郎・山本要次郎ら3氏に営業許可証が与えられました。
 昭和10年丸子橋の開通前は舟賃と砂利掘りが村の収入源の主力でした。川崎市の稲田堤と調布市の京王閣を結ぶ地点にあった菅の渡し″は多摩川最後の渡しで、廃止されたのは昭和48年6月のことです。


                             
                            イラスト:石野英夫(中原区井田中ノ町)



  
写真で見る  多摩川と渡し



             明治時代の多摩川の上流に渡し舟がいく  (横浜写真)

上流に遡るにつれ川幅は狭まり、渓流になっていきます。両岸にうっそうとした竹林を進む流れは、もっとも日本的で、清らかです
   提供:岩田忠利



大正10年(1921)、丸子の渡し
    
提供 :山本五郎さん(丸子山王日枝神社宮司)


丸子の渡しの創始者は岡本太郎の先祖


 
丸子の渡しの創始者は高津区二子の大貫市郎平衛という人で、かの有名な女流作家・岡本かの子(彫刻家・岡本太郎の母)の祖先です。
 陸上交通の発達していなかった昔の“渡し場”は庶民の重要な交通手段でした。そのうえ人間、牛馬、荷物を預かって大河を渡る危険な業務です。
 
 その後、渡し場の権利は地元の現中原区の上丸子、下沼部の2集落と大貫家の子孫・大貫重太郎さんの3者が持ち、利益分配していました。
 そして丸子橋開通後はその使命を終え、渡し場付近で貸しボート業を営んでいた榎本家にその権利は譲渡され、いまは観光用の渡し船となっています。




    大正時代、押すな押すなの満員、丸子の渡し

上のように満員の中に“牛”も一緒に乗り込むことがあります。と、右のような惨事が起きることも・・・・・
     提供 :山本五郎さん(丸子山王日枝神社宮司)



    牛のヨダレで大惨事

 
本誌スタッフで「川崎の生き字引」と言われた小杉御殿町の小林英男さん(川崎市へ合併前の中原町助役)が丸子の渡しに乗って東京・築地の立教中学校へ通っていた頃、こんなことがあったそうです。
 「大正14年の夏、数名の乗客と荷車を引く牛が一緒に渡し船に乗り込んだ。ちょうど多摩川の真ん中まで進んだ時のこと。牛のヨダレが川風に吹かれてヒラ、ヒラ、ヒラ……。
 顔にかかるヨダレを避けようと女性客が右往左往、最後に全員が風の川上に逃げたとたん、船は重心を失い、船の中に水が入り、川底に沈んでしまいました。この事故で数名が命を落とすという悲惨な出来事があった」。今でも小林さんは忘れられないと言う。




大正14年二子橋(後方)が完成した当時の二子の渡し

『とうよこ沿線』23号から


昭和30年代、船岸に「船代 金二十円也」の立札

提供 :山本五郎さん(丸子山王日枝神社宮司)



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