編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏

                          NO.59  2014.6.07 掲載                         
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樹木
百日草の詩(7)
昔の多摩川


                            取材・文:岩田 忠利


多摩川台公園下から多摩川上流を望む 撮影:岩田忠利
話す人:小林英男さん (元「とうよこ沿線」編集委員。中原区小杉御殿町)

 多摩川、その名の由来

 多摩川の名は、上流に丹波(たば)山村があり丹波川と呼ぶ・・・このタバが訛ったという説。
 また、中流の府中に大国魂(おおくにたま)神社があり、この“魂”から神聖な川とする説。
 さらに水が玉のように綺麗であつたからという説、これら3つの説があります。



府中の大國魂神社

      多摩川の両岸40キロに桜の植樹

 多摩川の桜は稲田堤が一番有名でしたが、今は跡形なしです。原因が樹齢か、虫害か、残念です。その後、川崎市ではその近くに稲田公園を造り、桜100本を植えています。

 昭和4年4月、時の春藤嘉平川崎市長を会長とし、安藤中原町長、天明東調布町長を副会長として川崎側は高津町から下流に、東京側は対岸の二子玉川から南へ砧村から羽田町至る1市8町村で「大多摩愛桜会」を結成し、両岸約40キロに10000本の桜を植える計画を立てました。

 それを計画倒れではなく、実際に実現させたのですから、昔の人たちはエライですね。
 多摩川岸の浅間神社で翌昭和5年3月15日に
朝日新聞社の後援で植初式を挙行しました。それを記念した石碑が鷹司公爵題額の「愛桜碑」が浅間神社の鳥居の右手、大樹の下に建てられています。

 
(上記植樹したソメイヨシノの寿命はせいぜい80年と言われますが、写真下の長寿の桜のように今も元気に花を咲かせ人々を楽しませてくれる桜になってもらいたいものです)。



 昭和9年、「大多摩川愛桜会」の人々

 上沼部の落合峯吉さんは「丸子橋から羽田までの多摩川岸を桜の名所にしよう!」と各青年団に桜の苗木200本ずつを無料配布しました。写真は植樹後の生育状況を多摩川畔の松籟荘前で視察中の一行です。
 提供:天明吉治さん(大田区南久が原2丁目)


多摩川河川敷、元巨人軍グラウンド近くの桜

玉堤通りの土手下は遮るものがなく巨木に成長、現存する貴重な桜の木です
。 撮影:岩田忠利




 ガス橋緑地付近の「21世紀の桜」

ガス橋きわの交番横から沼部駅付近まで約1.5キロ。遊歩道の外側に老木の大きな桜の木が点在し、その内側に21世紀になって植えられた若い桜が仲良く花を咲かせています。
撮影:岩田忠利


多摩川で見られた船


 
昭和中期まで多摩川で見られる船は、貸しボート、砂利船、漁船、渡し舟、筏がありました。

 大正時代までは春になると上流
から筏(いかだ)が来る光景を見ました。明治末期から大正期にかけて下流にできた工業群は伝馬船で原材料や製品を横浜まで輸送し、この船運の便が川崎の工業化に先鞭をつけたものです。

 さらに古くは、多摩川の水も多く河も深かったので、小杉陣屋町辺まで底の深い船が入り、芝の増上寺へ納める米を積み出した三右衛門河岸跡が等々力緑地の近くにありました。





     大正7年、丸子の渡船場

 丸子橋ができる十数年前の写真です。川崎側から対岸の田園調布1丁目の浅間神社や多摩川台公園を望む。
 学生服姿の子は東京の都心部あたりの子、きもの姿は地元川崎の子のようです。
 提供:榎本幹雄さん(上丸子八幡町)


      二子橋下でボート遊び

流れが緩やかで浅瀬では中年のご婦人でもボートを漕げました
 提供:菱沼淳子さん(玉川2丁目)








  昭和5年、“砂利光ちゃん”の舟がゆく

 丸子橋開通の5年前、東横線の鉄橋の上流。右手の亀甲山の下に細い道が川に沿って続き、ここは馬車や筏師(いかだし)が通る道で、現在の玉堤通りの前身です。 
提供:鴨下行八さん(野毛2丁目)


   多摩川の花火



 
多摩川の花火は、二子の花火が明治末期で一番早く、大正2年中原村役場の人たちが小杉から船を出して二子までその花火を見に行き、私も祖父に連れられ行った記憶があります。
 二子の花火は玉川電車の主催で近隣から自転車でよく見物に集まりました。

 川崎市制記念の花火は最初、六郷橋であげましたが、その後は今の幸区小向の先に、今はさらに上流第三京浜の方へと移りました。

一番規模の大きかったのは上丸子でしょう。料亭「丸子園」の創始者大竹氏は三河の出身。三河といえば花火の本場。これを東横電鉄が後援し全国煙火競技大会の形でやりましたから、各地から煙火師が集まり、大変盛大でした。打ち揚げ場所は東横線の鉄橋の上流、仕掛け花火がまた素晴らしかった。戦時中は一時中止、戦後復活しましたが交通事情から今は消滅・・・。とても残念です。
 細く長く続いているのは稲田多摩川の花火です。





  京浜地区最大の花火大会だった丸子の花火

  昭和42年8月、丸子橋下で小野滝蔵さん撮影
  提供:小野基一さん(新丸子町)


              六郷土手、大田区花火大会  提供:配野美矢子さん(港北区下田町)

                     2011年8月15日、川崎側の土手から撮影。対岸が六郷土手


  多摩川のアユ(鮎)


 
多摩川の鮎は古来有名、鵜飼いも行われました。しかし将軍家や諸大名の御用には網で漁った鮎を献上したと古文書にあります。

 大正時代まで小杉の河原でも鮎はよく釣れました。毎年解禁日は6月1日。だが、スリルはその前。
 何人か連れで夜中に出掛け、夜明けを待って釣り始めます。頬かむりをして「釣れますか?」などと言ってビク(籠)をのぞきに来る男がいます。やがて制服に着替えた巡査が取締りにやって来るのです。すばしっこい釣り人は逸早く対岸へ渡って上陸します。
 そのうち、向こう岸からもこっちへ向かって逃げて来るではありませんか・・・。もちろん両岸の警察署が打ち合わせしての一斉検挙です。結局、どちら側かで捕まることとなります。中には相当な名士もいたそうです。




大正7年、屋形船の中では鮎料理で舌鼓を打つ光景

 丸子の渡船場付近は、アユ漁の好適地。日本橋の旦那衆らがアユ漁を見ながら鮎料理を楽しむ光景がよく見られました。
 
提供:榎本幹雄さん(上丸子八幡町)

話す人:内田栄治さん (明治43年大田区田園調布本町の生まれ育ち。とび職)

     多摩川のマルタウグイ

 家の裏が多摩川の丸子の渡し場。子供の頃はよく魚獲りをして遊びました。
 多摩川は急流でしてね。舟に網をつけて陸で引っ張るんです。舟が急に曲がるから、水面が日陰になる。と、魚の連中はびっくりして飛び上り、舟の中に飛び込んでくるわけです。ウグイやアユのこんな大きなやつがね。帰りは仲間と分けて持ち帰るのですが、家中で食べる分、獲れたもんですよ。
 水が澄んでいたから白魚もいました。鉛筆くらい大きいのが・・・。天ぷらにすると、アユよりよっぽど旨かったねぇ。 それとマルタがたくさん獲れましたねぇ。
 若葉の季節になると、産卵に海から上がって来るんだけど、大きいのは腹に子がいっぱい。バケツに何杯も獲れることも・・・。このマルタの子とタケノコを煮て食べると、それは美味しいですよ。あの味は忘れられませんねぇ。
 あれほどいたマルタ、今はどこへ行っちゃったんでしょうねぇ。






春の産卵期、海から川を遡上するマルタウグイ日本では神奈川県以北に生息




  最大体長50a、1.5`にも

幼魚は1年ほど河口で過ごし、7〜9aで海に降りる

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