編集:岩田忠利 / 編集支援:阿部匡宏
                                  NO.57  2014.06.01 掲載
 

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紀行 何回長電話しても無料の国際電話 スカイプ
                        投稿:益田 勲(横浜市神奈川区神之木町)      


 はじめに

 廃墟、廃線巡りを趣味にしており、東横沿線にゆかりのある日吉の地下壕について、書かせていただきます。歴史的背景はとんと疎くて、それらの書き込みは出来ませんが、もうすぐ消えてしまいそうなものを見て来た感想になります。
 さてここは、「日吉耐弾式竪穴坑(地下壕)」と呼ばれています。日吉台にある慶応義塾大学の敷地内に太平洋戦争(ある年代の方は大東亜戦争のほうが馴染みあるようですが)の戦争遺跡があり、地下壕を掘って連合艦隊司令部(海軍総隊司令部)の通信基地として用いていたようです。多くの軍関係者が居住していたので、私は廃墟だなと分類しています。
 ここの見学会は毎年行なわれているようで、私は慶應義塾大学で開催された第5回戦争遺跡保存全国シンポジュウムに同大学に頼み込んで実現した時に参加しました。

 日吉地下壕の配置

 配布された地図は、日吉にある地下壕の全体配置図と、見学をした壕の詳細図です。日吉台地には地下壕が4か所あり、Cの箕輪地区のものが最大ですが、軍司令部があった@の地下壕に入りました。


          日吉地下壕配置図

      見学した濠の詳細図
  
 
 その時のレジメでは、海軍施設本部第一部長を最高指揮官として東京地方施設事務所が作業隊を編成、資材調達は芝浦補給部によって行われ、大規模で機密度の高い超特急工事であったそうで、機密保持のために東京憲兵隊があたったとあります。
 地下壕は延べ2600bに及び、箕輪地区の大聖院裏の地下壕を含めると5000bに達し、終戦直後、進駐軍はこの竪穴坑を見て「茸型の出入り口を持った迷路の地下大要塞」と表現したそうです。


 地下壕の内部


下壕入り口。入口は安全に補強されています

2001.8.4 撮影(撮影日は以下同じ)


始めの分岐の所(詳細図Pあたり)



 バレーコートの脇の入り口から入ると、50b位先のトンネルのそこかしこに、色々な部屋が見えてきます。長官室・作戦室・電信室・暗号室・バッテリー室・倉庫など連合艦隊中枢の施設がありました。電力は慶応義塾第1校舎内の変電設備から配線され、あの当時としては珍しい蛍光灯が使われていました。



隧道内はコンクリートのエフロレッセンス(白華現象)が著しい


居室内部。意外に内部は広い



出口付近。出口に向かう坂道、床が濡れている

 日吉の丘はなだらかな丘陵地帯で、太古の時代は海が迫っている地域だったそうです。坑口の付近は少し土が見えるところがあります。建設会社の研究所にいた時代に、相模原で地下50bの大深度の実験トンネルを掘ったことがありますので、その時の経験からこの日吉台地の地盤は関東ロームなどの下に上総層群、または三浦層群と呼ばれる土丹(洪積層の地層)があり、掘り易さもあって地下壕が造られたと推察いたしました。

 茸型の換気孔は弥生式住居の跡の近くに残っています。進駐軍の記述に出入口とありますが、ここからは小さくて無理だと思います。
 地質の状況はおぼろげに分かりますが、縦横に巡らした隧道群は地震の多い日本では、いささか恐いものを感じます。地下は地上に比べると、地震の振幅が地表の10分の1程度になるので、地上より安全だと言われますけど。
 
  六十数年たった今では、コンクリートの劣化は生じていますが、構造物としては、大変程度のよい状態です。この時は夏でしたが、温度は15度くらい、湿度は80lくらいでした。しかし、住むには不快で水も滴り落ちてくるし、やはり閉塞感は免れません。









茸型の換気孔

市ヶ谷の防衛省には石灯篭型の換気孔がありました

 学生寮の風呂場

この地下壕に続く道沿いに建つ学生寮(寄宿舎)を、日を改めて見学してきました。
 こちらはまさに建て直しが進んでいるもので、今後はもう見ることも出来ないと思います。学生寮の建物は谷口吉郎氏が30歳の時に設計したものだと言います。1937年(昭和12年)に建てられたものだと資料には書いてありました。
 全体写真はありませんが、学生寮は日吉の丘の上に3棟並んでいます。建物の間はゆとりを持って建てられており、どの棟屋も日差しが十分に入ってきます。見学させてもらった学生寮は最近リニューアルしたところで、住みやすそうな雰囲気の中にレトロな個所が随所に残っていました。
 反面、他の棟は老朽化が進行しており、ベニア板の張られた開口部や千切れたカーテンが痛々しく感じられました。もちろん学生さんは住んでいません。躯体の老朽化はコンクリートの表面にも現れていて、爆裂(鉄筋の腐食により体積が膨張してコンクリート押し上げる現象)が随所に生じていました。



学生寮北寮。草むした中の学生寮
2012.2.8 撮影(以下同日撮影)

お目当ては、南寮の西側に建っている浴場棟です。建った当時は周辺に高い建物もなく、日吉の丘陵が一望のもとに見えたものと思います。その当時の学生さんはこれほど奢られた風呂場で何を語りあったのでしょう。設計も結構モダンですし(やはり谷口吉郎氏が設計したもの)、とても戦前のものとは思えません。



見晴らしの良い丘の上に建つ学生寮の浴場



周りに竹林を配し趣が深い

 特に廃墟としての圧巻は、このボイラー室だと思われます。切り立ったドライエリアの窪みの中にある外壁は、当時の要塞の中にある弾薬庫のようです。
 
戦時中には、この日吉の慶應義塾の学舎全体が海軍連合艦隊司令部に占拠されています。これは慶応義塾100年史に記述されています。
 

当時は旗艦内おかれた司令部で指揮を執っていましたが、無線や通信の発達により、海上よりも陸上に司令部があることが攻撃され難く、戦況的に有利と考えられたのだと思います。この学生寮も立派な戦争遺跡だったのです。
 戦室、幕僚事務室、通信指揮室、暗号室、受信室等は先ほどの地下壕に設け、無線、有線の通信施設を設けられました。学生寮は士官のための宿舎になりました。

 浴場は進駐軍に接収され、バーラウンジだとか、ダンスホールとして使用されたとか聞いています。その当時の写真があれば見てみたいものです。

 浴室の中には入れさせてもらいましたが、残念なことに室内の写真は全て禁止でした。構築物には設計者たちの著作権があり、学生たちには個人情報がありますので、仕方のないことではありますが、浴室はぜひ撮りたかった。天井の頂部に明り取りがあり、ほぼ壁の半分を占めるガラス張りの窓があり、そこから夜景が見えるなんてロマンチックだったに違いありません。谷口吉郎氏の面目躍如たりというところでしょうか。



ボイラー室。浴室の下階に位置しています



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