取材・文集:岩田 忠利 |
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大正7年(1918)7月、川崎市中原区宮内地区有志の皆さんの富士登山。須走口の富士浅間神社で
中央、長髪に長い口ひげのひときわ目立つ人が、富士信仰の修験者で近郷近在にその名が知られた原 照源さん。地元では屋号「ばんば」と呼ばれる旧家の人。
最後列右端の人が最若年の畑ケ谷重信さん(左官職人)。写真掲載時の平成12年、この写真に写るただ一人ご健在の人で満100歳
提供:島田 昇さん(宮内) 写真集『わが町の昔と今』第2巻「川崎中部編及び当サイト「写真が語る沿線」掲載 |

写真上の富士登山者の名前 情報提供:島田昇さん(多摩区菅仙谷)
以下の名前は、島田昇さんが存命中の父・義久さんから聞き、書き記しておいたものです。
最前列右から原兵庫、2人おいて島田六蔵、小山金太郎、原貞造、原常吉、一人おいて山本佐市。その上の2列目、左から大熊久造、石井長次郎、原権五郎、石井義雄。
3列目の右から石井紀代司、黒田新助、原金五郎、島田梅吉、原照源、清水階蔵、原粂吉、清水彦太郎
最後列の左から清水伝蔵、山本久作、原兼造、島田源太郎、一人おいて山本五郎吉、原福次郎、小山浅吉、河原宇太郎、島田助次郎、金子正男、島田萬吉、一人おいて山田梅吉、大熊元春、原好蔵、畑ヶ谷重信の皆さん
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姿形の美しい富士山が世界自然遺産でなく、世界文化遺産登録の理由
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浮世絵 葛飾北斎作「富嶽三十六景」(山梨県立博物館所蔵)
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日本最高峰3776b、姿かたちの美しい富士山は世界遺産に登録されるなら、「当然、自然遺産だろう」と私は予想していました。ところが、平成25年6月、第37回世界遺産委員会の発表では「文化遺産」・・・。予想は大ハズレでした。
古来から富士山は神住まう所と崇められ、山頂への登山や山麓の霊地への巡礼を通じて神仏の霊力を身につける独特の富士信仰を育んできました。近隣各県各地に富士山を模した“何何富士”が造られ、住民の富士信仰が盛んでした。
芸術面でも富士山を題材にした浮世絵が葛飾北斎や安藤広重らに描かれ、世界の芸術家に大きな影響を与えてきました。
この信仰の対象、芸術の源泉としての富士山は、世界文化遺産として高く評価されたのでした。
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上の写真を見た山梨県富士吉田市の方から以下のメールが・・・
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岩田忠利 様
はじめまして、突然のメールで失礼いたします。山梨県富士吉田市の「すその路郷土研究会」という郷土研究会に所属し、富士信仰の研究をしております萱沼と申します。
当地には、川崎市中原地区宮内出身の原照源氏が大正7年1月〜2月にかけて、雪中富士登山を行い、山頂に約1ヶ月間山篭をした事を記念して建てられた石碑があります。しかし、石碑および原氏についてはほとんど知られておりません。
原氏の業績を後世に伝える為にと現在、調査研究を行っております。しかし、当時の地元新聞の記事と、富士吉田市の登山道沿いに建てられている原氏の雪中登山の記念碑だけで資料が無く、手詰まりの状態でした。
そんな時に、原氏の名前をインターネットで検索していたところ、『写真が語る沿線No16 武蔵中原地区 人の営みと情景』に掲載されている原照源氏の写真にたどり着きました。『写真が語る沿線』によると、原氏は地元では富士山の修験者として知られていたようなのですが、原氏の末裔の方や、原氏について詳しく知っている方など、いらっしゃいましたら、ご紹介いただけないでしょうか? 原氏に関する情報でしたらどんなことでもいいので教えてください。よろしくお願いいたします。
手持ちの古絵葉書に原照原氏の雪中富士登山を記念して出された絵葉書がありましたので、画像データがありますので送ります。HPで使えるようでしたらお使い下さい。 すその路郷土研究会所属 富士山好事家 萱沼 進
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上記萱沼進様から贈られた絵葉書複写の写真
「祝寒中頂上参籠者原照原氏之成功」の垂れ幕横に立つ姿は、人間を寄せつけない過酷な寒中の富士山頂に1カ月もの間山籠りしたその激闘ぶりを無言で表現しています、今から98年前の写真です
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無事下山を報じる山梨日日新聞(大正7年2月11日付け)
提供:萱沼 進さん(山梨県富士吉田市)
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「雪中登山者 無事下山 氷雪中に34日荒行」の見出し記事と写真に「雪中富士山頂に荒行せる原 照原氏」のキャプション付きで掲載
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新聞記事の現代語訳
「雪中登山者 無事下山 氷雪中に34日荒行」
先月1月6日南都留郡吉田村より雪中富士登山をし、氷雪の山頂に34日間荒行を為した東京神田区栄町皇祖主神教会長・原照原氏(51歳)はしばしば生死不明を伝えられたにもかかわらず、2月8日午前11時無事吉田に下山しました。
心配した村民
これより先、登山後、原氏は数回、火光(いわゆる“たいまつ”のこと)で無事の信号を発しましたが、去る5日午後6時頃山頂で火光を認めたまま天候不良になり消息を絶ちました。7日、吉田村民は第3回の決死隊を組織し登山しましたが前日来の積雪2尺(60.60a)以上に達し、登山することができず、そのままになっていました。
原氏は前記のとおり8日午前11時無事下山し、まず浅間神社境内に姿を現わしました。(左下に続く)
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数百名が集まった盛大な「原氏歓迎会」
原氏の無事下山を聞いた村民の驚喜は一方ならず、直ちに原氏歓迎会を開きました。その会の参集者は数百名に達し、前田村長が歓迎の辞を述べ、御師団(「おしだん」とは、神社に所属する神職の団体)から表彰状と記念品を贈り、山内室主(さんだいむろぬし)から清酒1樽を贈呈しその労をねぎらいました。
原氏は山内(さんだい)にいること34日間に及び、携帯した食糧はわずかに蕎麦粉2升・梅干30粒・椎茸30個に過ぎず。しかし少しも疲労の表情も見せず、声色も常人以上で参集の人々の前で次のように語りました。
「自分が3年間富士山頂参籠を決意したのは、好奇心からではなく、もとより虚栄心からでもない。明治45年7月、先帝(明治天皇)御不例(ごふれい)のことがあり、寝食を廃し、二重橋畔で御平癒を祈りましたが、その甲斐もなく・・・(以下略)。
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皇室の安泰を祈念する原氏の熱弁に人々は感激しましたが、主催者は氏の疲労を気遣い、講演の中止を乞い、万歳を三唱しました。
沿道も黒山の人
原氏を御師・菊田政夫氏方へ送る道中、沿道に原氏の手足に触れようとする者が多く、沿道は人山を築きました。菊田家到着後も少しも疲労の気配はなく人を引きとめて登山の経験談を・・・。
医師の健康診断は・・
なお、池谷医師の診断を受け、その結果は以下のとおり。
登山の際の体重20貫匁(75kg)でしたが、3貫300匁(12.4kg)減って16貫670匁(約62.5kg)でした。右手中指に僅少の凍傷を負っただけでした。胃は極めて小さくなりましたが、その腕力を試したところ、右手に31貫(116.25キログラム)、左手に22貫(82.5キログラム)の物を楽々持ち上げたのでした。
皮膚が少し荒れているのは神経が幾分衰弱気味と見受けられますが、ほかに異常はないという。
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帰京を報じる読売新聞(大正7年2月13日号朝刊)
提供:萱沼 進さん(山梨県富士吉田市)
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「富士山籠の荒行者 昨夜悠々帰京」「出迎えは紅ちょうちんに木遣節」の見出し
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現代語訳
「富士山籠の荒行者 昨夜悠々帰京」「出迎えは紅ちょうちんに木遣節」
寒中富士登山に成功した皇祖主神教の荒行者・原照原氏は、12日夜7時無事京橋新栄町1丁目の本部に帰った。
氏帰京の知らせを知った同教講中連の数百人は、数寄屋橋公園に集合して氏を迎え、記念写真を撮り、直ちに勢揃いして数十個の満灯を先頭に手に手に「原照源門人何某」と記名した紅ちょうちんを振りかざし、木遣節勇ましく本部に送りこんだ。
本部前は群衆が黒山、51歳の氏が雪中の難行を思いやって涙を流す老人もいた。
この盛大な歓迎に包まれた氏は、30日間の山籠生活に“蓬髪垢面(身だしなみが悪く、むさ苦しいさま)”、まとった白衣は鼠色に変わり意気軒昂、金剛杖を突いて悠々と歩む。
世話人の話では、氏は先月5日、東京駅を出発、6日登山、本月9日下山し、今回で第4回の荒行であるが、雪深く最も苦行したということである。
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山梨県富士吉田市の富士登山道沿い、泉水入口に建つ「雪中山籠記念碑」。大正10年1月建立
碑表面に原 照源氏の雪中登山の経緯が書かれ、最後に「登山ノ携帯食料品ハ蕎麦粉二升梅干生姜三十個ノミナリキ」
以上ハ当時岳麓人ノ実視セル所ナリ 大正十年一月」記述。 撮影:萱沼 進さん(富士吉田市) |
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同記念碑の裏面
白いのは撮影者・萱沼さんが刻文が読めるように片栗粉を塗ったもの。建立世話人が名を連ね、一角に「原氏生地 宮内青年団」賛助者の名前も記されています。
撮影:萱沼 進さん(富士吉田市)
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昨年4月3日、快晴の富士山頂
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想像できますか、寒中の山頂の気象を?
3776b日本一の富士の高嶺、そして遮るもののない独立峯・・・。
地球温暖化で気温は上昇したとはいえ、1月〜2月の平均気温マイナス25℃前後。独立峯だから風当たりが強く、1月の平均風速…16.4b、2月の平均風速…15.85b。
この強風に雪は飛ばされ、吹き溜まりは別として平均1〜2bしか積もらないのです。
冬の富士で顕著なのは気圧が低くなることです。年間1位が1月で約626.33ヘクトパスカル(hPa)、2位の2月約626.33ヘクトパスカル(hPa)。気圧が高いと、血管は細くなり、内臓は縮む。血液循環が悪く冷えやすい。逆に気圧が低いと、血管は拡がり内臓は膨らむ。血管、内臓、筋肉が膨らめば痛みが出やすいのです。平成18年度の我が国の平均気圧は、114hPa。上記の数値の半分くらいしかありません。
寒中の富士山頂は気温、風速、気圧、いずれも平地の私たちの想像を絶する世界です。そんな過酷な中に今から98年前、1カ月間も蕎麦粉2升と梅干・生姜30個だけの食料で、照源さんはどのように耐え、しのいでいたのでしょうか・・・。
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宮内の様相は一変……
富士吉田市の萱沼様からメールをいただき、さっそく翌日、私は川崎市中原区の宮内地区へ飛びました。写真集発行の取材で訪れて以来、14年ぶりの宮内の町並みは色鮮やかな看板や綺麗な店と住宅が並び、すっかり様相を変えていました。
まず最初に訪れたのは、最上段の大正7年の写真提供者・島田昇さん宅。インターホンで尋ねたら意外な答えでした。「もう、この家にはいません。読売ランドのほうに引っ越しました」。
当時の町内会長・島田豊作家を訪ねると「4年前に亡くなりました」のお返事。“まんが寺”で有名な常楽寺の住職・土岐秀宥さんには「とうよこ沿線」の創刊当時からご協力いただいたので訪問。住職はふた昔も前に他界、他所から若い住職が着任、昔のことは皆目分からないとのこと。「宮内公民館なら、古老の方々が集まるから、そちらへ行って聞いてみたら・・・」との策を授かり、通行人に公民館の道順を尋ね、ようやく着きました。が、公民館はカギが掛かり、管理人不在・・・。
なんの収穫もなく帰るわけにもいかず、隣の「鳶省建設」という看板の事務所に飛び込みました。
不思議なご縁、鳶省建設の親子との遭遇
なんと、まったく予期しない嬉しい返事・・・。
「照源さんは、うちの本家ですよ。いまは、うちが照源さんの墓を守っているんですよ。詳しいことは親父が知ってますから、親父に会って話を聴いてください」。とび職・3代目の原 正一さんはこう言って、自宅へ案内、2代目の原 繁義さん(87歳)を紹介くださいました。
記憶力も抜群、とても八十代には見えない人でした。
繁義さんは照源さんと同世代の人、祖父・原 嘉助さんから聞いていた照源さんのエピソードを次々話され、奥から額入りの照源さんの写真を持って来られました。
上の写真から98年の歳月が経ち、元気な照源さんを知る人は現在一人もいませんが、原 繁義さんにお会いできたお陰で、“幻の照源さん”が宮内が生んだ歴史上の実在の人物になりました。
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修験道と修験者
照源さんのように山に籠って厳しい修行をすることで悟りを得て“超自然力”を身につけ、庶民の救済をめざす宗教を「修験道」と言います。この修験道の実践者を「修験者」または「山伏」と呼んでいます。
超自然力・・・煮える豆を素手で掻き回す
超自然力といえば、上述の原 繁義さんの話では、大鍋で大豆を煮て信者に供するとき、周囲の人たちの制止も聞かず、煮えたぎる鍋の中に手を入れ、豆を素手で掻きまわし、火傷一つしなっかたそうです。
明治天皇の崩御日予言、不敬罪逮捕
次のエピソード・・・。近代日本の指導者として国民から仰がれていた明治天皇。照源さんも「明治大帝」とお呼びし最も尊敬する日本人でした。その天皇が明治45年、持病の糖尿病が悪化したという噂を耳にした照源さん、皇居前広場で両腕に火を点けた太いローソクを一本ずつ立て、一心に明治天皇の回復を祈願しました。
黒山の人々が見守る中、照源さんは突如、その祈りを止めてしまいました。そして、ひと言、呟やいたのでした。「私の祈りもむなしく、明治大帝は7月29日夜10時、ご崩御せられます」。おそれ多くもご崩御日時をズバリ予言したのでした。
取り巻く野次馬は騒然・・・。やがて飛んできた警官に照源さんは“不敬罪”で逮捕され、留置場に入れられてしまいました。
その5日後、明治天皇は糖尿病に尿毒症を併発、ついに明治45年7月29日夜10時43分、ご崩御されました。
驚くべきことに、照源さんの予言どおり、その日時がピタリ当たったのでした。公式のご崩御日は明治45年7月30日ですが、皇太子・嘉仁親王(大正天皇)の新帝になられる儀式の日程から側近の協議の結果、2時間遅らせ翌日の30日に変更したのです。
この事実を知った警察署は、照源さんを5泊6日の留置で無罪放免としたのでした。
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分家の原 繁義家にあった照源さんの写真2枚
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近郷近在の人々の病気・新築・結婚など生活の悩みや相談ごとに親切に応える神道皇祖主神教の開祖。
現代のような有料の水道のない昔、家を建てる場合、まずどこに井戸を掘るかが大問題。その水脈が地下のどこに走っているか、その位置と場所を照源さんはピタリと当てるので、新居建築の施主が次々訪れたという。 |
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左腰の帯刀は宮内庁から許可された刀
農家の人々の腹痛・肩こり・腰痛など患部に帯刀を当てると、やがて痛みが和らぎ、数日後には治ったという不思議な刀でした
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照源さんゆかりの場所
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