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寺子屋から公立小学校へ
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75,000もあった寺子屋
寺子屋は、江戸時代に庶民の子弟に読み書きや計算などを教える民間教育施設です。これを「寺子屋」と呼び始めたのは京都・大阪・伊勢などの関西だそうです。
江戸では「手習い所」や「手習い塾」と呼んでいました。江戸期には15,000の寺子屋があったことが記録に残っていますが、実際はその5倍、75,000もあったそうです。 |

マンガ:江戸時代の寺子屋 |
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公立小学校では12000校に激減したワケは・・・
明治5年に明治政府の新学制施行の翌年の明治6年は、小学校は全国に12,000校だったといわれています。寺子屋から公立の小学校にそのまま移行すれば、相当な学校数になっているはずですが、その数が激減しています。それは、なぜでしょう?
当時の小学校の校舎は、新築校舎は2割以下、82lがお寺や民家の間借りといった寺子屋と同じ状態でした。なのに、新学制施行になると、寺子屋時代にはなかった“授業料”という制度が導入されます。授業料の徴収を子弟の親が敬遠したからが、まず第1。つぎに、寺子屋は子弟の家事手伝いなどの合間に通える子供の時間に合わせた個別授業でした。小学校では一斉授業、通学時間の融通がつかない児童がいたことが第2の原因でした。
寺子屋と小学校の師弟関係・授業形態などの変化
寺子屋時代の師弟関係は「師匠と寺子」、寺子は親から師匠に渡すように預かった金品をお礼の気持ちとして渡す習慣がありました。しかし、この習慣はあくまでも任意です。
それが学制時代の師弟関係は「教師と生徒」になり、授業料を生徒全員が学校側に払うのが義務になりました。授業は、寺子屋のマンツーマンの「個別指導」から小学校のクラス単位の「一斉教授」に変わりました。テキストは、「往来物」と呼ばれていたものが「教科書」となりました。
小学校の数は地域活性化度合いを示すバロメーター
少子・高齢化の現代、地域の過疎地域では公立小学校の廃校や統廃合が急速に進んでいます。 若い世帯は子供の通学に不便な小学校の学区には住まず、便利な地域へと引っ越します。いま、若年層の人口減少が、ますます地方の過疎化に拍車をかけ、地方の町や村の存続すら危うい地域があります。
適正な人口構成に見合った小学校の数が、今や地域活性化の指標です。
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近場にあった寺子屋
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授業料なし。鴨居の寺子屋、大川私塾
写真右の大きな茅葺きの家は、JR横浜線鴨居駅の西方にある農家ですが、この家の先祖・大川熊太郎さんはi今から162年前、江戸後期・寛永5年(1852)、この家を開放して鴨居村はじめ近隣の村の子弟のために寺子屋「大川私塾」を開き、読み・書き・計算などを教えていました。授業料は無く、盆と正月に餅やわずかな心づけを家人が届ける程度だったと言われています。
4度の引っ越しで現横浜市立鴨居小学校に
この「大川私塾」は明治5年新学制の施行で明治7年9月、そのまま男女児童70名が学ぶ校名「鴨居学舎」となりました。さらに翌年「鴨居学校」と改称し、この茅葺きの農家に間借りした「鴨居学校」は明治11年(1878)9月まで開設以来26年間、続きました。
その後、鴨居学校は児童数の増加で校舎が手狭になり、4度も移転を繰り返し、今日の学校(写真右下)、横浜市立鴨居小学校に至りました。
「お師匠さん」と呼ばれていた新羽の寺子屋の家
江戸時代中期以降、寺子屋が地域の教育施設として大きな役割を果たしたという資料や言い伝えが東横沿線にはあります。
港北区新羽町の小池真吾という人で、地域の人々は近年までその家の屋号を「お師匠さん」と呼んでその活躍を称えていました。
小池真吾さんは港北区大豆戸町の小澤家に生まれ、単身江戸に出て、一流の書家・道本(どうほん)先生に師事し、師が徳川15代将軍・慶喜に書を教える際、共に登城しました。
その後、新羽町の小池家に入り、地域の子弟を相手に寺子屋を開きました。4代目当主の小池昌司さん宅には当時教えた、「読み、書き、計算、唐詩、理科、農業」などの教材の掛け軸が大事に保管されています。
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横浜市立鴨居小学校の前身、寺子屋「大川私塾」
横浜市緑区鴨居6丁目に建っていた寺子屋だった「大川私塾」。昭和47年9月撮影 提供:大川 実

現在の横浜市立鴨居小学校
撮影:石川佐智子
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子弟3500人を輩出した、安楽寺の宗澤文山師の「時習学校」
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明治18年、寺の境内に学校建設
JR南武線の武蔵中原駅東口からほど近い、現在の下小田中2丁目の住宅地に曹洞宗・安楽寺はあります。
山門をくぐった本堂前の左側、小高い所に高さ3bの石碑“宗澤文山師頌徳碑”が・・・。
この寺の住職、宗澤文山師(現住職・宗澤文良さんの祖父)が明治18年(1885)、境内に「時習学館」(のち、時習学校)という私塾を開校したのです。この大きな碑は、ここで学び巣立った子弟が大正10年、師の遺徳を偲んで寄進したものです。
厳しく、優しく。58年間に3500名が卒業
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この学校は尋常小学校5年を終えた組と同高等科卒の組の2クラス。校長の文山師の教育は大変厳しく、約束を守らない生徒は昼食無し。不正をする子にはいつも手にしていた松葉杖で容赦なく体罰を与えました。その半面、愛情豊かで、貧しい農家の生徒には月謝免除や僅かな野菜の付け届けだけで済ませたりもします。書、短歌、俳句、それぞれに号を持つ才人の教育者です。
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大正期、時習学校の在校生と卒業生
後列から2列目、中央長いあごひげの人が校長の宗澤文山
提供:原修一(川崎市中原区小杉陣屋町)
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こうした文山師を慕う両親は数多く、わが子を競って入学させました。地元の中原村はもとより近隣の村々、横浜や東京からも通って来ました。明治18年の開校から昭和18年の閉校まで58年間の卒業生総数は、3,500名を超えたのです。
歌人・岡本かの子の父や兄ら有能な人材輩出
中原町(※大正14年〜昭和8年まであった町名。現在の川崎市中原区全域)の初代町長で住民念願の丸子橋架橋や郵便局開設など町の発展の基礎を築いた安藤 安さん。
高津村の村長時代に関東大地震で被災した東京からの避難民に炊き出しをして救助した溝口の大貫寅吉さん(歌人・岡本かの子の父、彫刻家・岡本太郎の祖父)。
島崎藤村の門下生で岡本かの子に詩歌を指導した才能豊かな兄・大貫雪之助さん(29歳で他界)。
この宗澤文山師は大正期や昭和初期の地域の発展に指導的役割を果たした人材、また次世代の人材育成に尽力した人々を数多く輩出しました。その功績の偉大さは、町や村の寺子屋の域を超え、今も広く語り継がれています。
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