日本の欧米の学問と学制制度は、日本の銀山が“産出”


   日本人の1割が読んだ福沢諭吉の『学問のすゝめ』

 何事も草創期が面白い。何の経験もなく、新しいことを始める草創期は、試行錯誤の経験を長年積んでようやく辿り着くものです。その過程をふり返ってみると、笑い話のような実話があって楽しいものです。
  わが国が初めて「学制」を布いたのは、明治5年(1872)。今から142年前、この年の2月に福沢諭吉の書『学問のすゝめ』が出版され、この本は300万部売れたそうです。当時の日本の人口は3000万人、じつに10人に1人がこの本を読んだ勘定になります。昔から日本人って、向学心のある国民だったことを数字が示しています。


   新学制は子供100人に1校建設計画

 幕末から明治初期にかけてのわが国は、文明開化のスローガンのもと、欧米の教育法や学問を学び、導入しました。教育法はフランスから、医学はオランダから、工業は産業革命に成功したイギリスから、美術はイタリアから、そして農業はアメリカから・・・と。
 なかでも小学校建設は当時の学制では人口600人に1校ということですから、子ども100人に1校に相当します。

   野蛮国ジャパンに来た“お雇い外国人”

 では、日本は具体的にどのように学問の輸入をやってきたのでしょうか? この話を東京学芸大学・橋本美保先生のお話によれば、「専門分野ごとに各国の専門家を雇い入れる“お雇い外国人”」を招き、給料を払ってその知識とハウツウを導入したのです。
 しかし、橋本先生によれば、当時の日本は先進国の欧米人からみれば「風土病を罹って死ぬとか、土着民が刀を振り回している野蛮国とか、いろいろな噂が流れており、皆そんなにこぞって行きたいような所ではなかったはず」。
 ところが、数千人もの“お雇い外国人”、いわゆる外国人教師が来日していました。



 校長の給与の20倍から60倍の高給

 なぜ、そんな野蛮国、ジャパンに彼らは来たのでしょうか? その魅力は、お給料の高さにありました。

 当時、中学校の日本人の校長が月給10円、お雇い外国人の標準的月給200円、非常に高給で600円だったそうです。じつに20倍と60倍でした。
 当時の明治政府は、そんなに財政が豊かかといえば貿易も盛んでなく外貨の手持ちもありません。たとえ支払えたとしても、後進国日本の紙幣を彼らが母国に持ち帰っても紙ペラ、使えません。











  明治時代後期、八雲尋常高等小学校児童

 男女児童が左右別々に並び、全員がハカマ姿で壇上の先生に合わせ体操、それとも万歳、どちらなのでしょう? 
 八雲尋常高等小学校は明治5年東京府から認可された目黒区最古の学校です。明治期の小説家、国木田独歩の小説『酒中日記』に同校教師が主人公で登場しています。 当サイト「写真が語る沿線」(都立大学編)から
 提供:八雲小学校(八雲2丁目)
 日本は世界最大の銀産出国、
           給与は銀で支払う

 では、その財源はどこから? 当時の日本は、写真右上の石見銀山に代表されるように世界最大の銀産出国で世界市場の約3分の1を占めていました。備蓄していた銀をふんだんに使って給与を「銀」で支払うことができたのです。銀は金と同様、帰国して母国の貨幣に換金できます。

 つまり、日本の欧米の学問と学制制度は、この銀山がその姿を変えて“産出”したということになります。










 ユネスコ文化遺産、石見銀山遺跡(清水谷精練所跡)

 
信長の戦国時代後期(1568年)から5代将軍綱吉の江戸時代前期(1651)までの日本の銀産出は、世界市場の約3分の1を占め、そのかなりの部分をこの石見銀山(いわみぎんざん)から産出していました。面積は島根県大田市にある442ヘクタール
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NO.21 2014.4.11掲載

                      

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樹木
学制施行(明治5年)、草創期前後の日本

文・編集:岩田 忠利