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NO.8 2014.03.11 掲載
郷土史  強制労働の犠牲になった朝鮮人
                       文:岩田忠利

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  衾村最古の寺、東光寺

 都立大学駅西口を出て目黒通りを横切り、旧道を左折して100bほど行くと、この辺りが衾(ふすま)村(明治時代、現目黒区は碑文谷村と衾村であった)当時、村最古のお寺、曹洞宗の東光寺があります。
 ちょうど30年前、本誌『とうよこ沿線』24号で「都立大地区特集編」を発行しましたが、その取材で私が初めて山門をくぐったときのことです。最初に目にはいったのは、本堂前の高さ4bほどのコンクリート製築山、その山の周囲一帯に小さなお地蔵さんが数えきれないほど下から上へ、と並んでいる光景です。



 コンクリート製の築山に眠る朝鮮人の無縁仏

 
その数の異常な多さに驚いた私は、住職を訪ねてその地蔵について尋ねました。
 「これは、家族と死に目に会えなかった無縁仏の霊を祭ってあるのです。一部は戦災の犠牲者もいますが、大半は東横線敷設のとき、都立大学駅付近の工事に従事した朝鮮人の犠牲者ですよ。鉄道会社関係の人が来て、『死人を葬ってくれ、穴はこっちで掘るから』といって大きな穴を掘って行き、次々その穴に遺体を投げ入れていったのです。わしはその時、可哀想そうな人たちだなぁ〜と思いましてね。母国にも帰れず、家族にも看取られず、独り淋しく異国の地で逝った人たち。そしてこんな穴の中に…。
遺体の名前が分かりませんでしたので、一体ごとに地蔵仏を建てて葬ったのですよ」。住職は無縁仏建立の経緯をこう話されました。



  今は立派な無縁仏の墓地に“変身”

 東光寺住職のこの話に感銘した時の記憶は、今でも鮮明に蘇ってきます。 30年ぶりに訪ねた境内の景観は樹木が生い茂る景色から現代的な建物が建ち並ぶものに、すっかり変わっていました。
 あの無縁仏のコンクリートの山が無い…。先代住職亡きあと、どこかに処分してしまったのかな、と滅相な推理をしながら事務所を訪ねましたら、女性事務員が「本堂前、左手にあります」笑顔で教えてくれました。
 ありました、ありました。その場所は「無縁塔」と「納骨堂」に変わり、あまりに堂々とした立派な石造り建造物なので、見失っていました。人間の等身大の石仏、阿弥陀如来坐像が無縁仏の納骨堂を背にしっかり守っています。



左が高さ3bほどの「無縁塔」。右が「無縁仏の納骨堂」、その前に石仏の阿弥陀如来座像が守っています――東光寺墓地内



  朝鮮人労働者が従事した、東横線柿の木坂切通し工事の情景



大正末期、東横線の線路敷設の時。蒸気機関車クラウス号の進行方向は現都立大学駅、後方が学芸大学駅。右手の竹やぶは住友勇二家の屋敷、左手の森が田中安造家の屋敷。
  提供:小杉良裕さん(目黒区柿の木坂1丁目



            朝鮮人労働者の過酷な重労働とその犠牲者


 東横線開通前の大正末期、線路を現在の都立大学駅から学芸大学駅へ引くには、写真上の左手に高さ10b以上の岡があり、その土砂を取り除いて切通しを造らなければなりませんでした。


  人間としての人権は無視され、死ぬまで酷使

 この造成工事の初期は、土木工事の機械は無く、多くの朝鮮人労働者を集めて手掘りさせる人海戦術の労働でした。重い土砂をスコップで掘り、それをモッコで担いで運ぶ作業は耐えきれないほどの過酷な重労働そのものでした。
 疲れ果て、少しでも手を休めると、日本人監督が容赦なくスコップや棒で殴るのです。この繰り返される残虐行為を地元の人たちは、よく目撃していました。
 重労働のうえに、劣悪な食事情。空腹に耐えながらの重労働は極限に達し、栄養失調・過労・熱中症などで次々倒れ、息を引き取って逝く者が続発したのでした。現代なら人間が倒れれば救急車で病院へ、ですが、大正末期のこの現場では、朝鮮人は人間としての人権も無く、家畜同然の扱い、死ぬまで酷使するのでした。


  犠牲者は東光寺の穴に

 その犠牲者はそのたび東光寺境内の穴に運ばれ埋められた、と地元の人たちは証言しています。 



     日吉地下壕(旧海軍連合艦隊司令部跡)と朝鮮人労働者


      
       
慶應大学日吉キャンパス地下壕
 


イラストマップ:石野英夫(元住吉)

「とうよこ沿線」56号「日吉地下壕 潜入ルポ」から


   総延長2キロの地下壕

 上のイラストマップは、慶應大学日吉キャンパスの地下に総延長約1キロに及ぶ帝国海軍の重要な軍事施設であった「日吉地下壕」見取り図です。


 
   歴史上重要な作戦司令

  ここに司令官以下600名が常駐し、歴史的に極めて重要な作戦がこの地下壕から発せられました。
 当時帝国海軍が保有していた「戦艦武蔵」など多くの艦船と飛行機を失ったレイテ沖海戦(1944年10月)、片道の燃料だけを積んだ世界最大の軍艦「戦艦大和」の菊水作戦(1945年4月)も、ここ日吉から発せられました。


    
陸に上がった連合艦隊司令部

 昭和19年、戦局はますます悪化、通信能力が問題に。洋上の「巡洋艦大淀」にあった司令部は海から陸に上がらざるを得ない状態になりました。昼夜2交代の突貫工事で司令部を完成させなければならない。旧海軍には“設営隊”という軍事施設を構築する専用部隊がありましたが、早急に完成させるには到底無理なことでした。


 
  朝鮮人など強制連行者700人の強制労働で3カ月で完成


 日本兵だけでは足りず、さまざまな労働者が集められました。朝鮮半島から強制連行、いわゆる拉致された朝鮮人に一部の中国人も加え、その数700人といわれます。彼らは劣悪な労働条件もあって日吉・宮前地区の人家へ片言の日本語でフラフラになって物乞いに来たと地元日吉の人たちは話しています。
 こうして総延長約1キロの日吉地下壕は、1944年(昭和19年)7月から9月までのわずか3カ月間で完成しました。
 真夏の地下での掘削作業は、極度の湿気と高温の中での重労働、さぞかし多くの犠牲者が出たことが推測されます。しかし、その事実を裏付ける資料は無く、その人数と埋葬先が不明です









地下壕の内部はキャッチボールができるほどの広さです。
 幅4b、高さ3b、天井と壁の厚さ40a。狭い所でも幅約2b、高さ2.5b


  右手前が案内人の寺田貞治さん、左手前は私、隣に畑田国男さん



    
韓国の、我が国に対する歴史認識問題に思う


 以上2例の朝鮮人(韓国と北朝鮮国民)の強制連行、強制労働の実態の一部を、私は取材を通して知りました。また、昭和初期に現多摩川駅前に“多摩川園遊園地”建設の際も、多くの朝鮮人労働者が動員され、過酷な土木作業に従事させられた、と地元民から聞いています。こうした朝鮮人労働者を土木作業に酷使し多くの犠牲者を出していた例は、日本全国各地にあり、上記の東横沿線でのケースは氷山の一角に過ぎないのです。


   言論弾圧で隠されていた事実

 しかし、戦前・戦中期の日本は、こうした国益に反する情報は出版法・新聞紙法・国家動員法などによって言論弾圧され、法に触れると憲兵に逮捕されたため当時の日本人は国益に反する情報は一切知らされていませんでした。
 上記2例の取材の際も、戦後30年も経っているにもかかわらず、話を聞いた年長者は「私の名前は絶対に書かないでほしい」と私に頼んだのでした。
 それからさらに歳月が流れ、戦後生まれの人たちが大半を占める現在、日本人は過去の日本人が朝鮮の人たちにどんな酷い過ちを犯してきたかを知らないのが当然です。



   
安倍総理に会おうとしないパク・クネ大統領。その理由は・・・

 日本にとって韓国は、自由と民主主義を共有する最も重要な隣国です。そして、未来に向かって共に協力し合っていくべき良きパートナーです。なのに、両国の最近の関係は最悪。

 パク・クネ大統領は2013年2月に就任以来、一度も安倍総理と会っていません。彼女は竹島問題、従軍慰安婦問題、最近は上記の強制労働問題を挙げて「加害者と被害者という歴史的立場は、1000年の歴史が流れても変わることはない」と発言しています。また同大統領は欧米諸国歴訪のたび、要人との会談で「日本と首脳会談しても得るところがない」と批判的発言を繰り返しています。 
 これに対し、安倍総理は「(彼女の父親の)朴大統領時代に過去の損害は賠償金を支払い、清算済みとし、それ以上踏み込んだ回答を示していない状況です。それどころか、最近の安倍総理は韓国の日本に対する歴史問題を逆なでするかのように靖国神社を参拝したり、集団的自衛権法制化に躍起になり出したりしています。



  安倍総理の真摯な態度と誠意ある情報発信に期待

 先の太平洋戦争時代とそれ以前の日本は、確かに韓国に対し加害者でした。わが国の「迷惑料はお金を払ったから解決済みだ」の態度では、韓国が納得するはずがありません。異国の地で逝った犠牲者の命はお金では計れない。遺族の悲しみや心の苦しみも貨幣に換算できないからです。

 わが国の首脳は、加害者としての立場を認め、被害者の韓国に素直に謝るべきです。真摯な態度で真心を持って誠意ある情報を韓国に発信すべきだと思います。そこからパク・クネ大統領と安倍総理との会談が一刻も早く実現するよう努めて欲しいものです。このままでは、日本の国際的な評価が下がるばかりでなく、いま、まさに日・韓の同盟国関係が危ない!


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