岩田忠利(とうよこ沿線)

      


 同じ地名が東京側と神奈川県側にある?

 パソコンで下の地図を描きました。「おや、この地図、間違ってるんじゃないの?」とおっしゃる方がいるかも・・・。世田谷区の住宅地でお馴染みの瀬田が神奈川県の川崎市側にあったり、宇奈根という地名が両岸にあったりするからでしょう。そう、それは飛び地なのです。同じ等々力という地名が東京にも川崎にもあります。地図をじっくり眺めると、同じような地名(現在は町名)の町がいかに多いかがお分かりでしょう。

 
暴れ川の多摩川

 太古の昔から暴れ川の多摩川は大水のたび、流れを変え、村落を分断してしまったからなのです。新丸子東と多摩川
という町名は近年表示変更されましたが、他の地名は明治45年4月に東京都と神奈川県の境界が現在の境界になって以来、同じ地名が東京と神奈川に存在するという珍しいケースになりました。

 
多摩川が東京都と神奈川県の境界になる以前の暮らし

 私の知人、世田谷区等々力の豊田真佐男さんは対岸の川崎市中原区等々力にも先祖伝来の農地があり、自家用の渡し船に乗って農作業に通っていました。
 多摩川が東京・神奈川の境界になる以前、地図の下部にある下沼部は、神奈川県の川崎側にありながら東京府荏原郡調布村下沼部で、東京の飛び地だったため東京側からみれば「向河原」と揶揄され、それが現在は駅名になりました。
 下沼部の子どもたちは近場の小学校への入学が認められず、毎日渡し船に乗って東京側の調布尋常小学校まで通いました。
 それが明治45年4月に多摩川が境界となり、下沼部住民は神奈川県民として認められ、晴れて地元の小学校に入学することができるようになりました。

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地名  多摩川流域の地名を見て

ロゴデザイン:配野美矢子

NO.4 2014.3.3 掲載