No.21 反響No.8 
子や孫に伝えたいおばあちゃんの戦争体験(後編)


 
横浜大空襲
 
 5月24日、就寝前に警戒警報が出て、全部の電気が消える前にトイレにと、数人で階上のトイレに行ったとき、横浜方面の空が夕焼けのように真っ赤に染まっているのが見えました。横浜が空襲に遭っているのだとおびえて眺めていました。
 後で父に聞いた話では、その夜の空襲では我が家の隣まで焼けたとのこと。我が家の茶の間の屋根に親子爆弾(大きな筒に焼夷弾がつまっていて、空中で蓋が取れてばら撒かれる)の蓋が落ちて、畳を突き抜け地面を1メートル掘って止まったということです。父は、次は我が家だと、埋めておいたシャンペンを友人と飲み、餅米と小豆でお赤飯を作って食べたそうです。このときの空襲での経験が役立って、5月29日の空襲で命拾いができたと聞きました。

◆敵機518機が襲う

 5月29日は警報が出て引き続き空襲警報が発令されました。午前10時ごろだったと思います。1台しかない職員室のラジオはただならぬ声で情報を流していました。みんなは職員室の前にかたまって座り、固唾を呑んで聞き入りました。<B29を中心に小型機を含めて518機が来襲した>と記録にありました。
 「関東地区、関東地区、空襲警報発令! 相模湾より敵機北上中。敵機の数は600機……」
 アナウンサーはほとんど叫んで放送していました。サッカーの実況ほどではありませんが……。子どもたちはシーンと静まって身を硬くしていました。
横浜大空襲……米軍の重爆撃機から雨あられと降り注ぐ焼夷弾と爆弾

 東京も横浜もじゅうたん攻撃といって無差別にすべてを焼き尽くすという攻撃に見舞われました。横浜は市街地の外側と港側から焼夷弾攻撃を始め、前後を火の壁で包囲し、内側へ内側へと市民を追い込み、逃げまどう市民をめがけて、P51が低空から機銃掃射をおこなったということです。戦後に訪ねた母の友人の家には、機関銃のかすった後がいくつもあり、幼くて疎開できなかった女の子はその悪夢から抜け切れないと聞きました。機銃掃射を受けたときには小型機で機関銃を撃つ米兵の顔まで見えたそうです。

◆1時間8分で罹災者31万1951人

 やっと敵機が去り、警報が解除された直後、子どもたちの家族の安否を調べるため、借りてきたトラックに乗って、先生方が横浜に向かわれました。どのくらい経ってかわかりませんが、煤(すす)で真っ黒になった先生たちが帰られ、横浜の大半は焦土と化し、死傷者の数は計り知れないとのことで、子どもたちは家族の安否もわからず、声も出ない状態でした。
 実際の数は<わずか1時間8分の間に死亡者3650人 重軽傷者10198人 全焼民家 79017戸 罹災者数 311951人>と記録されています。罹災者の中には私の家族も入っています。落とされた焼夷弾の数は40万個……。

見渡すかぎり焼け野原となった横浜市街地

 戦後横浜に帰ったときには、横浜駅周辺に50センチばかりの焼夷弾の燃えかすがゴロゴロ転がっているのを見ました。一人当たり2個に当たる数というから驚きです。
 この空襲で家族が全滅して兄弟2人で残された子どもがいます。孤児とまではいかなくても、家を失った子、父や兄が戦死した子、親類縁者が亡くなったり怪我をしたりした子などたくさんあったことと思います。被害は神奈川区、鶴見区、中区、南区、西区がほとんどで、我が家は西区にありました。神奈川区、鶴見区は京浜工業地帯で軍需工場がたくさんある所。中、南、西は市街地で住宅密集地です。
 子どもたちの家の近くには東小学校があり、そこにはコンクリートで固めた立派な防空壕が作られていました。そこに逃げれば大丈夫だと信じられていましたが、左右の出入り口に焼夷弾が落ち、中にぎっしりと避難していた人たちは蒸し焼きになってしまいました。家族がそこに逃げることになっているという子どもたちは顔色を失いました。
 東小学校の体育館には、その日数発しか落とされなかった爆弾(攻撃はほとんど焼夷弾)が落ち、長い間骨だけの姿になっているのを見ました。

父の無事

 みんなと同じように父の消息はわかりませんでした。
 いつものように挨拶を済ませ布団に入っているときでした。旅館の階段をミシ、ミシと上がってくる足音にふと明かりがついた廊下に目をやると、煤(すす)で真っ黒になった父の姿がありました。煙のせいで父の目は真っ赤にただれていました。
 母と私は無事を喜びながら、父の話に聞き入りました。24日の空襲で防空壕はかえって危ないと悟った父は、近くの崖に身を寄せて状況を見ていました。家の軒に火がつくのを確かめて(直撃ではなく延焼)、もはやこれまでと野毛山公園に向かって走り出しました。玄関先に掛けてあるスプリングコートを取る間もありませんでした。状況を見極めていただけ避難が遅れ、公園に続く路地に入ったところで、日の出町あたりから立ち上る煙が迫り、息もできなくなりました。もうダメかと思いましたが、何とか野毛山公園の真ん中にあるひょうたん池にたどり着きました。ドボンと池に飛び込むと、水はお湯のようになっていました。頭から水をかぶりながら、火の手が収まるのを待っていました。空は真っ暗で夜のようでした。空襲が終わって家に戻ると、そこは焦土と化して、我が家は門柱と石段だけになっていました。
 畑の防空壕で夜を過ごすことにし、土の中に埋めたお米を取り出してみるとまったく炭になっていて食べられず、壊れた水道管からもれる水を空き缶に汲んで、非常食の乾パンを食べて飢えをしのぎました。たった1枚焼け残った布団を一緒に壕に入った人たちと引っ張り合いながら夜明けを待ちました。
 朝になって、母の妹の家族が近くに住んでいたので、安否を確かめようと公園を抜けて、一本松小学校の方に向かいました。道々、煙や炎から逃げようとしていた人々の死体が転がっていて、その死体をまたいで歩いて行きました。母親が幼子においかぶさって、自分は衣服も焼けてしまっているのに母の下にかくまわれた幼子がきれいな姿なのを見て、涙が流れました。
 幸い叔母たちは無事だったことがわかり、箱根の私たちのところまで苦労してたどり着きました。線路は飴のように曲がり、どこまでか延々と歩いてやっと湯本までやって来ました。

箱根から長野県へ

 6月に沖縄が陥落して、米軍はいよいよ本土に迫ってきました。箱根は相模湾に面していて、艦砲射撃を受ける恐れがあるというので、横浜に残っていた母の兄の一家とともに長野県の山奥に疎開することになりました。まったく縁故の無い知らない所でしたが、伯父の知人の紹介でした。
 3人の従妹、従弟たちと長野県下伊那郡大島村という所に身の回りの物だけをもって中央線で向かいました。汽車はいつ出発するかもわからず、やっとのことで乗り込んだ汽車は窓や乗車口まで人がぶら下がり、屋根にあがる人もいるような状態でした。10時間もかかったのでしょうか。辰野で飯田線に乗り換え、天竜峡で降りて旅館に泊りました。
 次の日、身の回りの品を背負って、1里(4キロ)の登り坂を歩いてやっと疎開先に着くことができました。中仙道の宿場であったという所で、大丸屋という屋号をもつ、 昔の旅籠でした。
 その頃、母は35歳、私は8歳。伯母には6歳、4歳、1歳の子どもがいました。女2人で七輪や鍋まで背負って、赤子や足が化膿して歩けない従弟を連れてどんな苦労をしてここまでたどり着いたのでしょう。今、自分の娘が同じ年頃なのとくらべてみると、戦時に生きるということの苦労が若い人たちに想像がつくだろうかという思いです。

終戦……玉音放送

 大島村では、空襲もなく、中央アルプスを正面に眺める自然に恵まれた静かな生活が続きました。長野県は教育県といいますが、村の人々は親切で礼儀正しく、疎開者いじめなども無く、落ち着いた生活ができました。近くを流れる松川で泳いだり、リンゴ畑の間の道を1時間も歩いて通学しましたが、ほっと一息つけるような日々でした。
 「きょう、陛下の玉音放送があるらしい。本土決戦になるのではないか」という大丸屋の伯父さんの話で、1台のラジオの前に座り込んで待ちましたが、雑音がひどくて聴き取ることができません。
 夕方になって「日本は無条件降伏をしたそうです」という情報が伝えられました。大丸屋のおじさんも母も「これからどうなるのだろう」と思いに沈んでいましたが、戦争に負けたという悔しさよりも明日の心配の方が先にたっていたように見えました。
 母は縁側にすり鉢を出してお味噌をすっていましたが、呆然として手が止まり、1点を見つめているようでした。伯母は泥んこになった従弟の手を引っ張って帰ってきて、縁側の前に立ちすくんでいました。
 情報はまったく入らず、もともと静かな山村で穏やかに暮らしていたひとびとは大騒ぎや過激な言動はなく、日常の時間が過ぎていきました。
 幼い私にはどんな事態なのか、どんな大変なことが起こったのか理解することはできませんでした。ただ、「米軍が上陸してきて、男は目をくりぬかれて殺される。女や子どもは奴隷として連れて行かれる」といったデマを恐れていました。実際、横浜に残っていた親戚の人が、軍属だった人や年頃の娘さんを隠すため、私たちの世話で大島村に隠れ家を求めてやってきたのを思い出します。    
 空襲を免れた伯母たちは鶴見の家に帰って行き、帰る所が無い母と私はさびしく残され、4ヵ月後、父が迎えに来てくれるまで二人っきりで暮らすことになりました。  
 「♪ 静かな 静かな里の秋 お背戸に木の実が落ちる夜は ああ 母さんとただ二人 栗の実煮てます いろりばた」そのままの姿です。

戦争の代償

 戦争によって父は仕事を失い、戦後の混乱期に新しい仕事を見つけることもできず、不安定な生活は一生続きました。
 貿易商で山下町(今の山下公園の近く)に地下室のある3階建てのビルを持っていた祖父はかなりの財産を築いていましたが、ビルは駐留軍に接収され、住んでいた家とたくさんの家作は全部横浜大空襲で焼け、戦後の新円切り替えで預金を失い、満鉄の株券などは紙くずと化してしまいました。
 わずかな身の回り品のほかは全部焼けてしまったので、仕事が無いうえ、住む家も無く、現在の磯子の地に落ち着くまで苦しい生活が続きました。

企画/編集 岩田 忠利(当サイト主宰者)
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