校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

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NO.7
ハマの“シンボル・スポット”

    「ハマのカイシャ」と呼ばれてきた日本郵船横浜支店


 明治18年支店開設の世界最大級船会社、日本郵船横浜支店

 右手先端がいまの横浜税関ですが、当時は一帯が日本郵船の建物で占めていました。
 横浜出身の作家たちも船会社に関係した者が多い。英町で生まれた大佛次郎の父は日本郵船に勤務していました。また伊勢佐木町生まれの今東光の父も日本郵船の欧州航路の船長でした。有島生馬、里見 ク、有島武郎の三兄弟の父は横浜税関長であって、生馬とクは、現在の西区老松町の税関長官舎で生まれました。吉川英治と長谷川伸は、高島町の三菱ドックの現場で働きながら青春期をすごしました。

 提供:日本郵船渇。浜支店(海岸通3丁目)


  写真左の現日本郵船横浜支店

 昭和11年に建てたゴシック建築のこの建物は、外観が重厚でいかにも「ハマのカイシャ」の呼び名にふさわしい。内部も天井がすごく高い吹き抜けで、エキゾティックな雰囲気が漂っています。
 2013.5.27 
撮影:石川佐智子さん(日吉)









  
 家具店9店が並ぶ「家具の元町」といわれた商店街



大正元年(1912)、元町商店街の情景

 当時洋家具店だった右手の宝田商店前3丁目から1、2丁目方面の町並み。中央に増徳院(現在南区平楽に移転)の本堂屋根瓦が見えます。車はフォード、山手に住む外人の車のようです。

 当時の元町は、「家具の元町」といわれ、細長い町並に9軒もの家具屋が並び、どの店も間口が広い土蔵造り2階建てで繁盛していました。主な得意先が山手に住む異人さん、山下町に点在する外国商館だったからです。
 また、その周囲には指物師・塗師屋(ぬしや)・張屋・挽物屋・鍛冶屋・鋳物師・軽子(かるこ)・木地屋(椅子)・ペンキ屋・彫物師・仕立屋・錺屋(かきりや)・銅壷屋(どうこや)といった13職種、25軒に及ぶ腕ききの職方衆が住み、それぞれいずれかの店に属し、その関係は親子のような固い絆で結ばれていたのでした。
  
提供:宝田和七郎さん(元町3丁目。宝田商店)



写真上と同じ場所、92年後の元町商店街

右手前2軒目の4階建てビルが
宝田商店。
2013.6.27 撮影:石川佐智子さん(日吉)

     ホテルニューグランド、ホテルマン55年の思い出

          提供:山崎保徳さん(磯子区中原)


日本の表玄関だった昭和2年12月、ホテル屋上から見た横浜港

 外国客船や貨物船で賑わう湾内、どの船も現代のものとは違い、喫水(きっすい)がまっすぐで波を切るのに抵抗があったという。山下公園、手前のイチョウの木もまだ小さい。
 
 ★「喫水」とは、船体の沈む深さ、すなわち船体の一番下から水面までの垂直距離のこと。



 昭和2年12月、ニューグランド専属ジャズバンド

 当時外国のバンドを呼んで毎日演奏していたのは、わが国ではホテルニューグランドと帝国ホテル。
 その頃立教大学の学生だったディック・ミネは、横浜の街でさえ車が珍しい時代に外車に乗ってきては、ホテルニューグランドのジャズバンドのバンドボーイをやっていたという。



 昭和1310月、日本初の「国際婦人クラブ」の会議

 
これだけ多くの世界各国の女性が集まる国際会議は、このときが日本では初めて。




    マッカーサーが占領下の日本を指揮していた部屋



 マッカーサーは317番のこの部屋でニッポンの占領統治を指揮していた

 日本の敗戦と同時に厚木飛行場にコーンパイプ・サングラス姿で降り立ったマッカーサー総司令官は、その足でホテルニューグランドに直行、10日間居住して占領下の日本の統治を指揮していた。
 現在もこの部屋だけは当時のままの状態で一般に公開。マッカーサーのポートレートが部屋にひっそりと掲げられている。



   連合国軍最高司令官
   ダグラス・マッカーサー


 マッカーサーといえば、私は敗戦国の国家元首・昭和天皇のことを思い出します。
 連合国のソ連と英国などの英国連邦諸国は「戦犯リスト」に昭和天皇を筆頭に挙げていました。
 しかし、マッカーサーは天皇を処刑した場合、占領下の日本は各地でゲリラ戦が起き、収拾できなくなることを予見し、ソ連や英国の意に反し、逆に天皇を丁重に扱う占領統治を行ないました。
 連合国軍の最高司令官がもしマッカーサーでなかったら……、と思うと、私はいつもゾッとします。



昭和28年、正面の男性は作家・大佛(おさらぎ)次郎

 左は奥様、地唄舞いの武原はん、うしろ向きのご婦人が辰巳柳太郎夫人と島田正吾夫人。
 一世を風びした映画『鞍馬天狗』の原作者・大佛次郎は、港と山下町界隈のエキゾチックな雰囲気をことのほか愛していた。そしてニューグランドの318号室を仕事場に、320号室を宿舎に利用していたのは昭和7年から17年までの10年間のことだった。この間、先
生のお世話をされたのは写真提供者・山崎保徳さんご自身。



  昭和33年6月、御来訪の今上天皇(皇太子時代)

 開港百年祭ご臨席のさい、ニューグランドに御来訪の皇太子殿下。うしろで案内するは、時の横浜市長・平沼亮三さん。








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