震源に近い横浜は東京以上の激震。市民の死者2万30000人余
1923年(大正12)9月1日午前11時58分、震源地は相模湾北部、マグニチュード7・9、震度6……。
震源に近い横浜は東京以上の激震。横浜市内の死者は2万3000人余りで当時の人口の5・4パーセント、
東京市の2.8パーセントを大きく上回る大惨事……。
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提供:常磐義和さん(港北区新吉田東) / 撮影:小峰武雄さん(市元建築主事)
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元町口のトンネルの上から壊滅状態の元町、山下町、桟橋方面を望む
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陸上交通は壊滅。水上交通の要塞、横浜港桟橋
桟橋もズタズタ。そんな中、救援物資や死傷者を運ぶ船が入港する。
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旧地番「居留地」の山下町。がれきの中に男の子2人
後方の崩壊建物は居留地10番地に建つグランドホテルか。
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高島町から現在の横浜駅、高島台方面の焼け跡を望む。手前に市電の残骸
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馬車道の市電の線路
通り左手に現日本火災ビル、その上に明治末期の代表的建築物、横浜正金銀行(現県立博物館)の塔が見える。
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手前が元町への入り口、谷戸橋。後方が新山下橋
護岸倒壊で橋はどちらも落ちる
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壊滅状態の神奈川県庁
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中央建物は右に傾く横浜区役所本庁舎
液状化現象なのか、電柱や建物が傾き、道路に水溜り。
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“青空”横浜市議会
右上の写真は明治44年竣工の横浜市役所ですが、内部は破壊し窓枠だけが残っています。市議会の議場が使えず、緊急を要する非常事態その重要案件を諮る青空の下での横浜市議会。議員の肩からかけた水筒が窮状を物語っています。 |
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不安をあおるデマや流言飛語
家屋や家族を失い、悲嘆に暮れる中に300回も続く余震の恐怖。そんな絶望的状態のもと、交通や通信が途絶え、正確な情報が入らず、デマや流言飛語が広がる。
「富士山が大爆発した」「大津波がやってくる」のデマから「不逞の朝鮮人や釈放囚が井戸に毒を入れた」「彼らに襲撃された」などの流言飛語が飛び交った。これに対抗するため、東京、川崎、横浜の各地で住民たちが竹槍、日本刀を用意し自警団を組織、朝鮮人を虐殺する事件まで起きた。
被災者はこうした社会不安の中でその日の住まい、食糧、飲料水の確保に忍従のタケノコ生活を強いられた……。
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飲料水を求める人たち
手に手にバケツを持った人たちの行列が続く。中央にあるのは市電にタンクを積んだ給水車。
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市電の乗務員から水の配給
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焼けトタンのバラック小屋
家を失った被災者は阪神淡路大震災や東日本大震災のような仮設住宅はなく、焼けトタンを集め、バラック小屋を建て、雨風をしのぐ仮住まいです。
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停留所「住吉町1丁目、横浜公園前」
横浜公園内にもバラック小屋が……。
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伊勢山皇太神宮の門前にできたバラック小屋
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