明治3年(1870)、横浜の新名所「野毛山不動尊」、出現!
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明治3年、大本山成田山中輿第13世原口照輪上人は、横浜地方の信徒の熱望によって新勝寺塔頭延命院を現在の西区宮崎町の高台に移し、そこに大本山成田山本尊の分霊を勧請、成田山横浜別院、通称「野毛山不動尊」を開きました。
境内は野毛山公園に隣接し、横浜市街と横浜港を眼下に見渡せる景勝地。写真は明治中期のもので、横浜案内の絵葉書の一枚です。
提供:成田山横浜別院(西区宮崎町)
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写真左の野毛山不動尊、昭和31年9月1日撮影
提供:成田山横浜別院(西区宮崎町)
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終戦直後、市民生活の断面
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終戦直後、都橋付近から野毛桜通りと旧中区役所を望む
左手白いビルは石炭ビル、その奥の4階建てが当時の中区役所。都橋は手前の交差点の右手にあたります。
伊勢佐木町や元町が米軍に接収されていた当時、ここは横浜随一の繁華街でした。焼け跡に建ったバラックの商店が立ち並び、野毛桜通りは買い物客でごったかえしています。
提供:写真の川尻(野毛町)
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写真左の現在の野毛桜通り
2013.6.27 撮影:石川佐智子さん(日吉)
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昭和21年、桜木町駅前で殺虫剤、DDT散布
今だからこそ「DDTを直接人体にふりかけるなんてとんでもない話だ」と言えますが、当時はこれが大まじめに行われていました。終戦直後の混乱期、環境衛生の状態はきわめて悪く、ダニやシラミが猛烈な勢いで繁殖していました。これを駆除するのにDDTが盛んに使われていたのですが、その後人体に対する悪影響がわかり、使用が禁止されました。
この写真のように、DDTは街頭や学校などでもよく散布されました。それこそ頭のてっぺんから足の爪先まで。ご覧のとおり、女性の襟の中や、男性のズボンの中に至るまで、この強力な殺虫剤をふりかけられたのです。戦後の衛生環境を象徴するスナップです。
撮影:石野英夫さん(川崎市中原区井田中ノ町)
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昭和26年、国電2両全半焼、99人焼死の桜木町事件、現場検証
昭和26年4月24日、「いま桜木町駅で、電車が燃えている!」近所の人の叫び声。歯科医の長谷川さんは下駄履きで診察室を飛び出しました。もう焼け跡でした。しかし、たまたま高架の線路に竹梯子がかかっていたので、それをよじ登って撮影したのがこの写真。
焼死99名という大惨事は、神奈川県では鶴見事故と並ぶ二大交通事故。同じ交通事故でありながら、事件と事故とに区分されています。
ともかくこの事件を契機に「非常の場合はドアを手で開けられます」の非常ドアが車内と車外に取り付けるようになりました。原因はパンタグラフが架線を切り、それが屋根に垂れ、発火したものでした。
撮影:長谷川弘和さん(西区伊勢町)
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