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     明治天皇ご臨席、日本初の鉄道開業式典



明治5年、新橋(現汐留)〜横浜(現桜木町)間に日本で初の鉄道が正式開業しました

 旧暦9月12日、お召列車で到着した明治天皇のご臨席のもと、横浜駅前で開業式典(写真)が行なわれました。この日は新暦1014日に当たり、のちにこの日「10月14日」が鉄道記念日となりました。
 当日は国旗として制定されたばかりの“日の丸の旗”を飾って祝いました。それまで国旗掲揚は船舶に限られていましたが、この式典をきっかけに政府は祝祭日の国旗掲揚を決定しました。
  提供:長谷川弘和さん(西区伊勢町)
 
  明治3年(1870)、横浜の新名所「野毛山不動尊」、出現!



 明治3年、大本山成田山中輿第13世原口照輪上人は、横浜地方の信徒の熱望によって新勝寺塔頭延命院を現在の西区宮崎町の高台に移し、そこに大本山成田山本尊の分霊を勧請、成田山横浜別院、通称「野毛山不動尊」を開きました。
 
 境内は野毛山公園に隣接し、横浜市街と横浜港を眼下に見渡せる景勝地。写真は明治中期のもので、横浜案内の絵葉書の一枚です。

 提供:成田山横浜別院(西区宮崎町)


写真左の野毛山不動尊、昭和31年9月1日撮影

提供:成田山横浜別院(西区宮崎町)











                      終戦直後、市民生活の断面



終戦直後、都橋付近から野毛桜通りと旧中区役所を望む

 左手白いビルは石炭ビル、その奥の4階建てが当時の中区役所。都橋は手前の交差点の右手にあたります。
 伊勢佐木町や元町が米軍に接収されていた当時、ここは横浜随一の繁華街でした。焼け跡に建ったバラックの商店が立ち並び、野毛桜通りは買い物客でごったかえしています。
 提供:写真の川尻(野毛町)



写真左の現在の野毛桜通り

2013.6.27 撮影:石川佐智子さん(日吉)















           昭和21年、桜木町駅前で殺虫剤、DDT散布

 今だからこそ「DDTを直接人体にふりかけるなんてとんでもない話だ」と言えますが、当時はこれが大まじめに行われていました。終戦直後の混乱期、環境衛生の状態はきわめて悪く、ダニやシラミが猛烈な勢いで繁殖していました。これを駆除するのにDDTが盛んに使われていたのですが、その後人体に対する悪影響がわかり、使用が禁止されました。
 この写真のように、DDTは街頭や学校などでもよく散布されました。それこそ頭のてっぺんから足の爪先まで。ご覧のとおり、女性の襟の中や、男性のズボンの中に至るまで、この強力な殺虫剤をふりかけられたのです。戦後の衛生環境を象徴するスナップです。
 撮影:石野英夫さん(川崎市中原区井田中ノ町)




昭和26年、国電2両全半焼、99人焼死の桜木町事件、現場検証

 昭和26年4月24日、「いま桜木町駅で、電車が燃えている!」近所の人の叫び声。歯科医の長谷川さんは下駄履きで診察室を飛び出しました。もう焼け跡でした。しかし、たまたま高架の線路に竹梯子がかかっていたので、それをよじ登って撮影したのがこの写真。

 焼死99名という大惨事は、神奈川県では鶴見事故と並ぶ二大交通事故。同じ交通事故でありながら、事件と事故とに区分されています。
 ともかくこの事件を契機に「非常の場合はドアを手で開けられます」の非常ドアが車内と車外に取り付けるようになりました。原因はパンタグラフが架線を切り、それが屋根に垂れ、発火したものでした。

撮影:長谷川弘和さん(西区伊勢町)



       MM21の街づくりで消えた、横浜(三菱)ドック

提供:山室まささん(港北区新羽町)


 横浜(三菱)ドックは横浜港内唯−の船舶修繕工場として設立されて以来90余年、3基の船渠・7基の繋船岸壁をはじめ優秀な設備を有し、常にわが国造船界のトップを守ってきました。



戦後初の建造船



昭和33年船体延長工事

 横浜(三菱)ドック(船渠)の思い出

 
横浜を大変貌させつつある「みなとみらい21」を語るとき、先ず忘れられないのは、本牧と金沢に移転した「横浜(三菱)船渠」のことです。 野毛山から横浜中に鳴り響いた午報のドンが戦時中に消え、代わって耳馴れていた三菱の横浜船渠のサイレンも、現在は市の中心地から遠ざかってしまいました。
 思えば、高島町から桜木町までの地に横浜船渠として設立されたのは明治24年のことでした。昭和10年に三菱重工業渇。浜船渠として合併操業。
 戦後は集排法により、
昭和25年に東日本重工業渇。浜造船所と改称、昭和39年、三重工合併により三菱重工業渇。浜造船所となり、57年に移転となったのでした。

 広大な敷地内の船台で建造された秩父丸(初めてのプール付客船として評判でした)をはじめ、日枝丸、氷川丸など1万トン級船の進水に目を見張った昭和初期。計画造船によって鋼材の揚げ下ろしの少なくなった戦後。新造船を廃止して建築用材のみを吊り下ろした近年。工場の変遷を、あのクレーンはどんな心で見ていたのでしょうか? また同様に、掃部山の井伊大老の銅像は、この渺茫たる「みなとみらい21」計画地をどのように見ているのでしょうか?

 船渠から連想されるのは進水式です。戦前の艦艇の場合、特に海軍軍楽隊のマーチ吹奏のもとに皇族妃殿下の御成りがあり、客貨船では船主の令嬢の銀色の斧で麻綱が切られ、満艦飾の巨艦が緩やかに滑り出します。 受注・設計・各工程を経て見事進水を果たすその瞬間、関係者の安堵の吐息、観覧者の感激等さまざまな想いをこめた、どよめきと万雷の拍手の全てを海の向こうに消し、昭和541130997番船タブリズ丸の進水が最後でした。

 千隻の進水なせし船台は人影もなく
 春の雪舞う

 こんな淋しい歌ができても、日本丸が繋留されたり、跡地に造船記念館が建設される限り、「横浜船渠ここに在りき」の想いは未来永劫に残るでしょう。  文:山室まさ


       国指定「近代化産業遺産」としてMM21地内に保存、横浜ドック

撮影:石川佐智子さん(日吉)


帆船「ニッポン丸」が繋留されている横浜ドック「NO.1ヤード」


横浜ドック「NO.2ヤード」

ヤード内の後方左手にいる人間の大きさとくらべてヤードの広さを想像してください。

MAP:桜木町駅・関内駅・元町地区

校正:石川佐智子 / 編集支援:阿部匡宏 / 古写真収集・文・編集:岩田忠利

NO.3
明治時代からの桜木町・野毛、点描

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